polarground

北極星が視界から一向に消えない

Debriefing: 行き着いた先に、何も無いなら―UNISON SQUARE GARDEN活動休止後の人生を生きるということ―

  • この文章は、UNISON SQUARE GARDENの現体制終了・活動休止と、それに関連する全体的なトピックについて筆者が考えたことをまとめたものです。UNISON SQUARE GARDEN LIVE2026”Sentimental Period"に言及している箇所がありますが、ライブレポートを目的とした文章ではありません。
  • この文章は、筆者自身を含む、活動休止に直面しショックを受けた方向けの「こう考えることもできるかもしれない」という提案のひとつとして書いたものです。本稿の内容はあくまでもいちリスナーの考えであり、精神的不調に関わる問題に対する専門的支援に代わるものではありません。何卒ご了承ください。
  • 冒頭で伊藤計劃「ハーモニー」の内容に触れています。直接のネタバレではありませんが、結末に関する内容のため未読の方はご注意ください。冒頭を飛ばしたい方は以下の目次から先へお進みください。

 

 

 

 

はじめに

今のところ人生で最も好きな小説の著者が、インタビューでこう語っていた。

人間の持っている感情とか思考とかっていうものが、生物としての進化の産物でしかないっていう認識までいったところから見えてくるもの。その次の言葉があるのかどうか、っていうあたりを探ってる。で、前回と今回はとりあえず「なかった」っていう結論なんですけども(笑)。

出典:『ハーモニー〔新版〕』伊藤計劃 2014 早川書房 P369

 

 

 

 

このインタビューは、オリジナル作品としては彼の第二長編にあたる「ハーモニー」刊行に際して行われたものである。

概要だけ説明すると、世界的な疫病・虐殺・核戦争により存亡の危機に陥った人類が、その反省から医療技術を革新し、病気という概念を根絶することで「誰も病気で死なない」世界を実現した未来を描いたSFである。

私が最も好きな小説というのは第一長編(デビュー作)の「虐殺器官」なのだが、その直接の続編ではないながらも地続きの、ひとつ先のテーマを扱っているとされる。

 

上記の発言は、作中世界の延長線上にある、人間が必ず直面しなければならない問いを示したものである。

このインタビューは、彼が癌で闘病していた最中、東京医科歯科大学(現:東京科学大学)の病室の中で行われた。

闘病中、病院の中で書き上げられた小説が「誰も病気で死なない」世界の物語であるというのはとてつもない皮肉だが、それは同時に作品が描いたものの切実さの証左でもある。

「病気という概念の根絶」なんて言葉だけ聞いたらそんな無茶苦茶な世界があるかと感じるだろうが、言葉の主が闘病中と分かったうえで聞くと、はるかに凄みのある言葉、切実な発想だと思えるのではないだろうか。

もちろんこの世界設定に説得力があるのは、本作が膨大な知識のもと極めて緻密で強固なロジックで作られているからであり、何より本当に面白い作品だからであるが、やはり作者自らの切実な状況と体験という要因が物語に血を通わせているというのは決して無視できない。

 

それ故に、上記の発言もまた、極めて説得力、真実味のある言葉として、作品の結末とともに私に深く刻まれている。

 

本作の結末ではこの言葉の通り、感情や思考を持つ人間の行く末について、極致とも言えるひとつの答えに達している。

人間の感情や思考が生物としての進化の産物でしかない=人間を人間足らしめるほど特別なものではない(かなり簡略化して説明するとこういう言い方になってしまうが、おそらく実際はもう少し複雑である)として、その次の言葉が「なかった」世界とは果たして何なのか。これ以上はネタバレになってしまうため興味があれば是非読んで確かめていただきたい。

 

このインタビューの3ヶ月後、彼は亡くなったという。

 

 

小説に限らず人間の行う表現には、これ以上ないほどのギリギリの極限まで突き詰めた結果たどり着ける領域、いわば「行き着いた先」が存在する、ということを初めて理解したのは、この作品を巻末インタビューまで通して読んだことがきっかけだったと思う。

そうした表現は必然的に熱を帯び、人の心の奥深くに届きうることも。

そうした表現の誕生には必然的に、途方も無い苦しみが伴うであろうことも。

彼はこの作品で描いた結論について「いまのところはこれが限界」と述べていた。ここでいう「限界」の意味が持つ重さは言うまでもない。

本作はその言葉通り「行き着いた先」に到達した作品にして、(自身で完成させたものとしては)生前最後の長編小説。それはつまり、「その次の言葉」、おそらくギリギリまで模索していたであろう「行き着いた先」の「その先」を聞くことがもう叶わない、という作品である。

そんな作品に触れたことは、今の自分の考え方に少なからず影響している。

 

 

一方で、この時私は、「行き着いた先」がもたらすものを、まだ理解しきれてはいなかった。

「行き着いた先」に辿り着いた後も、当たり前に人生が続くこと。

その過程で「その次の言葉」を探し出すことにもまた、別の苦しみがあるということを。

 

私の場合、小説ではなくひとつのロックバンドによってそれを知ることになった。

ここでいう「行き着いた先」とは2024年7月に日本武道館で行われたライブに代表される活動20周年のことであり、「その次の言葉」「その先」を探していた期間は、そこから2026年7月に幕張メッセで行われたライブまでの、約2年間にあたる。

その発端は2026年4月末だった。

 

 

 


 

本題に入ろう。

ロックバンド・UNISON SQUARE GARDENの活動休止について。

そして2026年4月末の初報から、2026年7月15日に幕張メッセで行われたライブ”Sentimental Period"を経て、現在までずっと考え続けることを強いられた命題。

「行き着いた先に辿り着いた人はその後どうすればいいのか」について、私なりの考えを残しておく。

 

 

UNISON SQUARE GARDENに何が起きたのか

UNISON SQUARE GARDEN(ユニゾン)のことをよく知らない方でも、ネットニュース等で何かざわついているのを見た方は多いかもしれない。話を進める前に、ユニゾンに何が起きたのか、どんな影響があったのかを改めて整理しておきたい。

2026年4月27日の夜、その発表があった。バンド公式HPでは以下のページに記載されている。

unison-s-g.com

 

 

内容は、Dr.鈴木貴雄の脱退、これに伴う現体制終了と活動休止、そして7月15日に幕張メッセにて現体制最後のライブ開催。この三つである。

今後は分からないがこの時点の発表はあくまでも「脱退」「活動休止」である。今もときどき「解散」との混同が見られるのでどうかご注意いただきたい。

 

こうした発表がどれだけ悲しいものかは、音楽が好きなら多くの方がご存じだろうし、私が受けたショックの大きさも推察いただけると思うので、私がどう感じたかについてはここでは省略する。

ただ、特にバンドが20周年を終えて以降は、息の長い活動をしていたユニゾンでもいつかこうしたことは起こりうると考えており、覚悟はできないまでも、可能性のひとつとして常に私の頭にあった。なので4月27日に脱退と休止の報を知ったときも、本当にショックだったがかろうじて耐えられはした。

 

しかし周囲を見ると、全く予測さえできていなかったかのような反応が多く見られた。

加えて今回のユニゾンの場合はそのショックが特に大きく、異質だったように思われる。

私がユニゾンをずっと聴き続けていたことや、私の周囲にユニゾンを好きな方が多くいたこと、そもそもユニゾン自体ファンクラブ会員だけでKアリーナを満員にできるほどファンの規模が大きいこと、といったバイアスはもちろん存在するが、それを差し引いてもである。

悲しみ、怒り、失望、諦め、虚無等々、表出の仕方は様々ながら、この事態によって「生きるか死ぬか」というレベルまで思い詰める方を非常に多く見かけたのだ。

いやいやバンドの脱退・休止なら当たり前のことだろうと言われるかもしれない。全くその通りである。だが今回ユニゾンでは、ショックの「切実さ」が突出しているように感じられたのである。

 

そこにはユニゾン特有のいくつかの要因が関係していると考えられる。

それらはユニゾンが強みとしていたことでもあり、今回の脱退・活動休止で綺麗に弱みへと逆転してしまったことが、この混乱、紛糾に繋がったのだと思われる。

 

なぜ衝撃が大きかったのか

ここではご存じない方向けの整理のために「何故ユニゾンの活動休止の衝撃が大きかったのか」についての分析を述べていく。あらかじめ断っておきたいのだが、本稿全体の目的は決して「何故ユニゾンが活動休止したか」を分析することではないので、ご承知おきいただきたい。

 

楽曲・演奏面

ひとつは、ユニゾンがスリーピースロックバンドであること。

UNISON SQUARE GARDENはVo./Gt.斎藤宏介、Ba.田淵智也、そして今回脱退したDr.鈴木貴雄の3人組である。ギターベースドラムの音が主体の音楽としては最小の編成であり、ひとりの役割も大きい。そんなバンドからの脱退は当然大打撃になりうる。

というのは大前提として、ユニゾンの場合はさらに、最小編成で音楽をやることに強いこだわりを持っていた。

その姿勢がメンバーひとりひとりの存在をより巨大なものにし、喪失感も巨大にしてしまった。

 

ユニゾンのライブにおける基本的な演奏の方針は「自分たちが演奏するギター、ベース、ドラムの音は同期音源(生演奏の音に合わせて流す別の音源)を使用しない」というものである。

ストリングスや管楽器、ピアノ、電子音が前面に出るタイプの楽曲は例外だが、それ以外の大半の曲は一貫して3人だけの音で演奏していた。加えて少なくともギターに関しては音源では多重録音していたようなので、ライブでは必然的に音源よりも楽器の数が少なくなる。

ならライブは音源より迫力も薄まるのではないか?と心配になるが、そうならないのがユニゾンである。むしろ、楽器の数の少なさを全く感じさせない厚みと、音源を凌駕しうる密度がある。

youtu.be

 

何故それが実現しているか。音作りといった音楽の技術的側面ももちろんあるだろうが、それだけではなく「1曲の情報量の多さ」というのが大きな要因であると考えられる。詳しく言うと、時間が決まっている1曲の中で成立するギリギリまで音の数を増やし、展開の変化や変拍子などもひたすらに盛り込んだ、目まぐるしく起伏が激しい楽曲が多いのである。

Vo./Gt.斎藤宏介の歌に関してはメロディを圧縮するためか時に凄まじく早口になり、ほとんど噛むこともない。斎藤の歌唱の技術的分析と、それがユニゾンの楽曲にどう寄与しているかは以下の記事に詳しい。

realsound.jp

 

そのためユニゾンは、3~4分程度の中には一見収まりそうに見えない膨大な歌詞と超高密度のサウンドを実現している。まだユニゾンを良く知らない方は、是非一度歌詞の文字量を「眺めながら」曲を聴いてみていただきたい。代表曲にしてバンド最大のヒットである「シュガーソングとビターステップ」などは特に顕著であり、これほどの情報が4分弱に詰め込まれ、しかも全く違和感なく聴き通せるということに驚くのではないだろうか。

youtu.be

 

www.uta-net.com

 

 

このような楽曲の情報量や密度を実現するには、歌に限らず、全ての楽器・パートで同様の技術が必要になるであろうことは、素人目に見ても容易に想像がつく。

シュガーソングとビターステップにしても、間奏の混沌としたセッションから静謐なCメロの独唱に移行するまでの流れは、発表から10年以上経った今なお訳が分からず、3人全員の人間離れした技量を感じられる。

ユニゾンは同業者評価が高いバンドでもあるが、他のバンドやアーティストの方がユニゾンを評価する言葉でよく見かけたのが「技術力/演奏力が高い」であった。時には本人たちが特に影響を公言しているわけでもないのに「プログレ」(プログレッシブ・ロック。ロックのジャンルのひとつで進歩的、革新的なロックを意味し、技巧的で複雑な楽曲などが特徴とされる)*1であると評価されることさえあった。

 

 

 

そんな高度な技術が求められる演奏を基本的に3人だけでやり続けるというのは生半可ではない。

その上そこに対するこだわりや自信も強い。2021年発売の8thアルバム「Patrick Vegee」は3人の音だけで構築したアルバムにしようと思っていたそうだ。またそのリリースに伴うライブツアーは、当初「『同期曲』(同期音源を使った曲)を排除」した曲目を構想していた*2という。つまりシュガーソングとビターステップも当然弾かれるセットリストということになる。

 

前者はオーケストラサウンドを導入したシングル曲「春が来てぼくら」収録により100%3人の音だけにはならず、後者はCOVID-19の流行により方針転換を余儀なくされたが、アルバム8枚目にして自分たちのむき出しの実力だけで1アルバム、ひいてはライブツアーを形成しようとするのは相当な胆力が必要だろう。それでも外的要因がない状況でやろうと思えばおそらくどちらも実現し、成功していたのではないだろうかと思う。

youtu.be

 

 

こうした、極限まで突き詰めた技術の上に成り立つストイックな姿勢は当然、非常に潔くカッコいいものであった。

だがそれを22年近く続けたことによる必然的な反動として、3人全員がバンドの構成要素として唯一無二であると多くの人に認識され、誰か一人でも欠けてしまうことの想像ができなくなってしまったのだと言える。

 

活動方針面

もうひとつ、こちらの要因が特に大きいと思うのだが、ユニゾンが自分たちの活動方針を常に言葉にしていたということである。

これがユニゾンの活動に物語性を生み、楽曲・ライブに限らず在り方そのものを魅力的にしたが、数多くの方がユニゾンの物語に没頭した結果、「物語の終わり」のような状況に瀕し、想像以上のダメージを食らってしまったのだと考えられる。

 

UNISON SQUARE GARDENはバンドの活動について、公式のメンバーブログで非常に詳細な発信を行っていた。

ユニゾンは新曲・CD発売やライブツアー発表といった基本的な告知や宣伝の内容が、一般的なそれと比較してさらに踏み込んだところにあった。

CDを出せば楽曲へのこだわりにとどまらず、「なぜCD発売とサブスクリプションサービスでの配信がこのような関係性になっているか」「なぜ初回限定盤特典の内容がこうなっていてどんな意義があるのか」といった周辺情報に至るまで、バンドの方針に照らしてどのように意思決定が行われたかを、主にバンドの司令塔である田淵智也が詳細に解説していた。

2022年4月に発売されたTVアニメ「TIGER & BUNNY2」OP「kaleido proud fiesta」発売直前のブログなどは顕著であり、バンドがずっとこだわっていた「CDを売る」「CDを買った人がいい体験をする」こととサブスクやアニメタイアップであることとの落としどころについて語られている。

 

この曲はCDリリース日と定額ストリーミングサービス・すなわちサブスクリリース日が同じになる。

「そんなもん当たり前だろ」という人が多いと思うが、実は我々には配信販売期も含めて結構な歴史があり、要は「CDを買ってもらえるとやはり嬉しい」という事実に対してどういう形で発信していきましょうかというのをかなり紆余曲折トライしてきたのだ。

 

(中略)

 

CDの存在意義みたいなのに関しては世の中的にも自分的にもだいぶ変わってきた思っているが、今読み返しても気持ち自体ははあんまり変わってない。

音楽家として正しく届けるべきだという「純粋さ」を大切にする、ビジネス上の理屈として諦めてはいけない「使命」にこだわる、ユーザーにとっての「便利」をきちんと考える、あとランキングはマジでどうでもいい「マジでどうでもいい」。

出典:BLOG | UNISON SQUARE GARDEN - official web site 「小生田淵がよく喋る2022年3月」https://unison-s-g.com/blog/?category=tabuchi

 

 

 

詳細は全文読んでほしいが、「自分たちはこういう考えのもとこういう施策を行う」とファンに言葉を尽くす姿勢はバンドの「誠実さ」や「地に足のついた感じ」が伝わり、非常に好感が持てるものであった。

 

 

一方でこの発信にはもうひとつ目的があったように思われる。自分たちの歴史のアーカイブ化である。

それがユニゾンの活動に物語性を生んでいた。

 

ユニゾンは自分たちのことを常に「ロックバンド」と称していた。

メンバーブログや各種媒体のインタビュー等を読んでいけば、単に音楽ジャンルや演奏形態を示す言葉ではなく、自分たちの憧れや目指すべき在り方を定義する、特別な意味を持つ言葉であることが分かる。

その前提のもとブログ等にある活動方針や施策への言及・説明を読むことで、読み手には彼らの考えるカッコいい「ロックバンド」を成立させるための具体的方法の一例が伝わる。

客席に向けてノリ方を強要しない。そのためにコール&レスポンスなどもしない。

楽曲を重視しセットリストの構成と曲同士の繋ぎで成立するライブ体験を実現させる。そのためにMCも極力挟まない。

このような、自分たちが目指すバンドの美学とも言えるようなことは頻繁に語られていた。先述した「技術力/演奏力の高さ」もこうした特質を持つ「ロックバンド」のライブを実現させるために必要な方法のひとつだったと言える。

同時にこうした活動についての具体的な語りは、読み手の中に「彼らが理想的な『ロックバンド』として快進撃していく」あるいは「彼らが自らの理想の『ロックバンド』に辿り着こうとする」というような物語的構図を成立させる効果を持っていた。

 

また、この構図の提示と物語化はある程度意識的に行われていた節がある。

田淵による公式サイトのメンバーブログは、バンドの集大成、結成20周年当日の2024年7月24日に行われた日本武道館公演を含む20周年施策のフィナーレ、2024年12月にユニゾンと縁のあるバンドたちを呼んで行われたライブ”fun time tribute”終了後の更新で止まっている。そこには次のように示されている。

 

ロックバンドのやり方はこのブログに全部書いてきたし、

伝えなきゃいけないことは7月24日に全部言ったから。

あとは好きにしてよ。

出典:BLOG | UNISON SQUARE GARDEN - official web site 「小生田淵がよく喋る2024年12月」https://unison-s-g.com/blog/?category=tabuchi

 

つまり一連のブログを読めば「ロックバンド」のやり方が分かるということになる。この記述からユニゾンは、20年間活動することを「ロックバンド」の完成形と定めた場合の「『ロックバンド』になる過程」「『ロックバンド』として結実するまでの過程」として、意識してバンドの方針や施策をアーカイブ化していたと思われる。

さらに自分たちの活動プロセスが確かなものであったという自負も読み取れる。先述したCD発売時の説明などを見れば、実際にうまくいったかはともかく、理に適った戦略のもと、確かな行動を積み重ねてきたということは明らかに伝わるだろう。

このように捉えると、リアルタイムで活動を追いかけることが非常にドラマチックになる。

結果としてユニゾンは楽曲・ライブパフォーマンスのクオリティにとどまらず、その在り方、信念においても多くの人を魅了することになった。当然私もその一人である。

 

だが同時にこうした物語化は、負の面も生んでしまったように思う。

ユニゾンが「ロックバンド」という概念を、凄まじく訴求力の高い物語として構成し提示したことにより、物語の「終わり」が持つ意味が大きくなってしまった。長期週刊連載の漫画が突如残り数話での完結を予告したときのように、物語に没頭した人ほど現体制終了(繰り返すが「解散」ではない)のショックが高まったのである。

さらにユニゾンにとっての「ロックバンド」という概念は彼らの信念でもあり、それを実現する具体的プロセスが示されるにつれて「生き方」や「人生論」のような性質を帯びるようになった

そしてユニゾンに影響を受けた人ほどそれが内面化され、自分自身の生き方と不可分なものになっていった、という流れが想定できる。シュガーソングとビターステップの歌詞”生きてく理由をそこに映し出せ"とはよく言ったもので、生きてく理由をユニゾン自体に見出してしまったということになる。

結果、ユニゾンの活動がストップすることにより、自分のアイデンティティにまでダメージが及び、ついには自分自身の人生の進退、「生きるか死ぬか」というレベルにまで至ってしまう人が現れたのではないかと考えられる。

 

 

以上が、ユニゾンの活動休止の衝撃を巨大なものにした要因として、考えられるもの2つとその背景である。

繰り返すが、ここまで述べたことは全てユニゾンの強みでもある。これらがユニゾン独自の魅力を生み、多くの人を熱狂させてきたのだ。強みが大きい分落差も大きかったという話である。

奇想天外な楽曲を難なく弾きこなす技量と自信。クールで熱く何より楽しいパフォーマンス。

時に柔軟さを求められながらも一本筋の通った信念。それを伝えることを怠らない姿勢。

作品だけでなく自分たちを総体として捉え、「ロックバンド」という壮大な青写真を構想する力。

その実現のための綿密な思考と戦略性。確かな実力を土台にした具体的な行動。

それら全てによって、人の生き方まで揺さぶり、影響を与えるほどの存在感。

これだけ魅力的な点があってカッコよくない訳がないのである。そもそも、脱退・活動休止のショックが大きいということは、それだけ愛されていたことの紛れもない証左である。

 

そしてこれら要因の共通点は、バンドの在り方を突き詰めた結果生じたものであることと言える。

楽曲・演奏面における技術とライブへのストイックな追及。自らが理想とする「ロックバンド」を目指す物語の終わり。

これらを突き詰めた先の境地は、表現の「行き着いた先」と換言しうる。ユニゾンはそこに辿り着いた後、活動を止めることになったのだ。

 

 

以上を前提として、ようやく本質的な命題を考え始めることができる。

「行き着いた先に辿り着いた人はその後どうすればいいのか」である。

本稿では、今回ショックを受けた方の感情を否定するつもりは決してない(大体私自身がその感情を抱く一人である)。また、上記で挙げたユニゾンの強み・独自性の是非について批判することも目的としていない(それを客観的に行うには私はユニゾンに脳を灼かれすぎている)。

 

だが、このショックを受け、これからどうしていくのかは考える必要がある。

先に述べた要因のうち、特に後者の「物語化」については、結果的に一部の方のアイデンティティへのダメージや「生きるか死ぬか」といった考え方の一因に繋がった可能性がある。自分の大好きなバンド、ましてや”ロックバンドは、楽しい。”というロックバンド像を22年間近くに渡り提示してきたバンドの活動休止に起因して、こうした心理的危機に陥る方がいるというのは、あまりにも歯がゆい。

加えて、今回のユニゾンの件を通して、私も全く他人事ではなく、今は違くともいずれこの心理的危機に直面する可能性があるのではないかという危惧が生まれたのである。

そのためここからは、この問題をひとつの問いに集約し、考えをまとめることで、まずは私自身がこれから起こりうる危機に対処し、乗り越える一助にしたいと思う。あくまで私自身のためのテキストとなり、万人に一般化できるとは考えていないが、わずかでも他の方の助けになるようなことがあれば幸いである。

 

 

さて、命題について考えるにあたり、ユニゾンにとっての「行き着いた先」が何で、その後はどうだったのかを掘り下げる必要がある。

そのために、ユニゾンが提示してきた物語のクライマックスを、一度解体し俯瞰しなければならない。

そこから示唆されるのは、今回一部の方が感じたようなアイデンティティの危機や、「生きるか死ぬか」まで至らずとも「人生の進退」という問題に直面したのは、ユニゾンも全く同じだったのではないか、ということである。

 

UNISON SQUARE GARDENの「行き着いた先」と、さらにその先にあったものは何だったのか

UNISON SQUARE GARDENの提示した「『ロックバンド』になる過程」「『ロックバンド』として結実するまでの過程」という物語のゴールは、20年間活動することだったと述べた。

正確に言うと、2024年7月24日に行われた日本武道館公演”ROCK BAND is fun.”がユニゾンの想定していたゴールであり、「行き着いた先」にあたる。

実際はこの日以降も2024年末まで様々なライブや施策があったが、それらはオマケと捉えられており、ユニゾンにとってはあくまで結成20周年当日に武道館でライブをすることが「ロックバンド」を結実させるための主軸だった。

 

以前、この公演について、以下の記事を書いた。

btaim-polerground.hatenablog.com

 

この記事では、武道館公演の意味について、概ね以下のようなことを述べた。以降はこれらを前提に話を進めていく。

  • UNISON SQUARE GARDENの20周年記念公演”ROCK BAND is fun.”はロックバンド人生の集大成であり、20年間やってきたことの結論が示されたライブであった。
  • そのためにセットリストの構成を通し、普段から掲げる「楽しい」だけではなくバンド人生の中にあったはずの「楽しくない」ことにも、出来る限り余さず光を当てていた。
  • その結果、観た者に「人生」を想起させるライブになった。
  • MCで語られたUNISON SQUARE GARDEN20年間の結論は「世界は別に変わらなかった」「世界が変わらなかったのはつまらなかった」。だがファンがずっと見ていてくれたことにより「ロックバンドをあきらめなくてよかった」。
  • このライブのキャッチコピーは「ロックバンドは、やっぱり楽しい」であり、その言葉に違わず、紆余曲折を経た上で、人生の総合評価としての”fun”=「楽しい」を提示するライブだった。

 

音楽、ライブに加え、メンバーブログ等の発信も含めてユニゾンが提示してきたロックバンドの在り方は、「楽しい」を掲げている通り、痛快でエキサイティングに映るものだった。

もちろん、必ずしも順風満帆ではなかったことも示唆されてはいた。2ndアルバム発売あたりの時期はなかなかうまくいかず、「闇期」と称されていることはファンの間でも有名である。

だが「オリオンをなぞる」発売以降は徐々に「闇期」を脱出、着実に好転し、活動10周年で一度目の武道館公演を実現させている。こうした実際の成果もあり、ユニゾンであればどんな困難も乗り越え、確かな「楽しい」を示し続けてくれる、と認識していた方が多かったように思う。

こうした背景のために、20年間の結論として「世界は別に変わらなかった」「つまらなかった」と明言されたことは、乗り越えられなかった困難とその悔恨が吐露されたかのようで、凄まじい衝撃だったのである。

 

そしてライブのハイライトのひとつが、終盤に演奏された、アンセムと言っても過言ではない「シャンデリア・ワルツ」である。

 

ハローグッバイ ハローグッバイ

行き着いた先に 何も無くても

息をする僕らは構わない 世界が始まる音がする

出典:UNISON SQUARE GARDEN シャンデリア・ワルツ 歌詞 - 歌ネット https://www.uta-net.com/song/141409/

 

youtu.be

 

 

“行き着いた先に 何も無くても”

ユニゾンが構想してきた「ロックバンド」を結実させるための日に、20年間の活動で出した「楽しい」「楽しくない」両方を包括した答えを踏まえてこの曲が歌われたことには大きな意味を感じざるを得ない。

まさにこの日は「行き着いた先」に辿り着いた日だった。同時に「何も無くても」と歌われていたが、実際はそうではなく、ずっと自分たちを見てくれているたくさんの人たちがいた。ユニゾンが「ロックバンド」に至る物語は「世界を変える」といった当初の想定とは異なったものの、素晴らしい形で結実したのは間違いない。

 

 

では、「行き着いた先」のその先、具体的には21年目、2025年以降はどうだったのか。

 

先述したが本稿全体の目的は決して「何故ユニゾンが活動休止したか」を分析することではない。こうしたことのうち表に出せるものは限られると推察されるため、憶測で語るのは避けたい。何よりオフィシャルの発表とメンバー3人のコメントに書かれていないことを邪推したところで、事実が変わるわけではない。

ただ、発表されたものの中に、私にとって他人事とは思えないものがあった。そのひとつだけは取り上げておきたい。

 

休止発表時、鈴木貴雄から以下のコメントが出された。

 

 

あくまで休止に至った要因のひとつなのだろうが、ここから読み取れるのは、バンドの主幹・田淵智也の20周年を終えたことによる「燃え尽き」=バーンアウトである。

この一点からは、おそらく20周年以降、「その先」のヴィジョンを長期にわたって描くことに限界が来てしまったことが示唆される。

 

 

2024年7月24日の武道館ライブMCにて、田淵は20年間の一側面を「つまらなかった」「楽しいことばっかじゃないからさ」と振り返った。それは時に「ロックバンドをあきらめてもいい理由になった」とまで言ったのだ。

これら一連の言葉から、実はユニゾンはギリギリの状態でどうにか20周年を迎えたのではないか、という可能性に思い至ることができる。特にライブを生で、配信で、あるいは円盤で観た方ならこのMCの重みがよく分かるはずだ。

 

 

それに加え、このライブまでのユニゾンの活動を改めて振り返ると「楽しいことばっかじゃない」という言葉を裏付けるようなことが実はいくつもあったように思われる。いちファンのごく限定的視点から見える範囲の活動だけでも、である。

20周年以前においても、先に触れた2ndアルバム発売ごろの「闇期」や斎藤宏介のポリープ摘出手術といった、既に「乗り越えた危機」として認識され歴史の1ページに刻まれたものだけではなく、COVID-19の世界的流行によるライブ活動停止期間、これに伴う8thアルバム「Patrick Vegee」発売延期を始めとした活動プランの狂い、鈴木貴雄がバンドの公式グッズプロデュース担当から外れるなど、ファンが認識できる範囲でも様々な出来事があった。

ユニゾンはこうした困難に直面する度、別のアプローチでどう楽しむかを模索する姿勢があり、それを意識的、具体的に示し続けてきたからこそ、我々は安心して音楽やライブ、それらに付随する各種施策を楽しむことができていた面がある。

だが先述した武道館でのMCを踏まえると、無理してこのポーズをとっていた可能性もあるのではないかと思わされる。

 

その姿勢を公に示さなくなった、正確には20年間の活動が結実したことで示す必要がなくなった結果、2025年から公式サイトのメンバーブログ更新が止まった

これ以降起こった出来事としては、公式ファンクラブ「UNICITY」発足10周年記念ライブが従来のライブの枠組みを大きく逸脱し賛否両論であったこと(私個人は、このライブはファンクラブコンテンツの延長線上にあるもので「ファン感謝祭」の側面が大きいと捉えており、20周年を終えた今ならこれくらいやっても許容範囲だろうと考えていたので非常に楽しめたのだが、そうではなく「ロックバンドのライブ」を求めていた方にとっては望んだものでなかった、というのは否定できない)、その直後に開催されたユニゾンと縁が深いバンドとの対バンツアー「fun time HOLIDAY9」の初日4日前に、もうひとつの、若手中心の対バンツアー「fun time ACCIDENT4」の開催が性急とも言えるタイミングで発表されたこと、何より、現状最後のツアーとなってしまった2025年12月~2026年2月にかけてのホールワンマンツアー開催が7月末に発表されたにも関わらず、ツアータイトル発表まで実に約3カ月を要したこと、などである。

ホールワンマンに関してはアニメ「うるわしの宵の月」タイアップによる情報解禁との兼ね合いの問題も考えられ、仕方なかった可能性もある。だが総じて2025年以降の活動は、ひとつひとつは非常に楽しいものであったが、2024年までと異なり全体の流れや意図がぼやけてしまっていた印象を受けた。

新曲やライブなど情報解禁のタイミングや仕掛けに幾度となく驚かされ、その意図が何かできる限り詳細に説明する姿勢に感銘を受けてきたこともあって、少なくとも私にとって、上記に挙げた出来事の例は驚きより困惑の方が大きいものであった。

 

注意してほしいのは、上記に挙げた「出来事」の例が、活動休止と直接因果関係があるとは言い切れないということである。

ここから明確に言えるのは、あくまでも、「行き着いた先」に辿り着いた20周年以降は活動が(従来と比べ)膠着していたこと、活動を続ける方策にブレがあったことまでである。

私が言いたいのは、そんな膠着とブレの大きな要因は、ユニゾンが人生の集大成のその先にどうしていくかという方針を見つけられず、ストーリーと行動の形で自分たちを定義できなかったからではないかということである。

これまでのユニゾンは「『ロックバンド』として結実するまでの過程」というストーリーラインが方針の軸としてあり、実際の活動がそこに合致するように見えていたが、「ロックバンド」として結実してしまった2025年以降、それに代わる新たなストーリーを描けなくなった、あるいは描く必要性が薄れてしまったことからその軸が見えにくくなり、活動との不整合が生じていったのではないか。

幾度となく挫けそうになりながらどうにか人生の大舞台を迎え、観た者に人生そのものを刻み付けるような表現をやり尽くして、その次に何をすべきか分からなくなるというのは、やはり「燃え尽き」=バーンアウトと言えるだろう。

 

以上のように見ると、長きにわたり続いたバンド活動の進退というのは、そのまま「人生の進退」という問題にも繋がりうることが分かる。特にユニゾンの場合は人生の集大成を明確に定めてしまっていたので余計である。

そして、一番問題なのは、ユニゾンが音楽とともに「生き方」や「人生論」に通ずる概念をも物語のように劇的に示し続けたために、ユニゾンに精神的な影響を受けてきたリスナーである私たちの一部までも、今回の活動休止により「人生の進退」を突き付けられる形になった。いわば我々も間接的に「行き着いた先」に辿り着いてしまった、ということである。

ユニゾンが好きで、その物語に没頭した結果、ユニゾンの「楽しさ」だけではなくいつの間にかバーンアウトまでもが自分事になってしまった、ということなのだと思う。

 

 

では、行き着いた先に辿り着いた人はその後どうすればいいのか。

つまり、これからどうやって生きていけばいいのか。

 

今回の活動休止を、「ロックバンド」の「死」のように捉える人もいた。

気持ちは分かるが、これは全く違うと考えている。先述した「ストーリーを描けなくなった」というのは、描こうとはしていた、つまり活動を続けるつもりで模索していたがうまくいかなかったということである。そうでなければ2024年が終了した時点で終わる可能性だってあったはずだ。にもかかわらずそこから1年と7か月弱の間、方針の乱れと行動の迷いが見られながらも活動は続いていたのである。

つまりこれはまだまだ生きようとしたから起こった問題である。人生の集大成を終えてなお、生きていたからこそ行き止まりに直面し、生きたままこの先どうするか考えた結果、活動休止という一応の「存続」に至ったのだ。

これは「死」の問題ではない。冒頭に挙げたような、死によって突然「行き着いた先」のその先が絶たれることとは性質が全く異なる。

「ロックバンド」の精神に対する比喩としてなら、休止を期にその精神を示せなくなる状態を「死」と捉えうる可能性もあるが、あくまでも比喩に過ぎない。そうであったとして物理的に生きているのなら人生は続いていくのだ。これからの人生の進退という問題をパスできるわけではない。

 

故に、ユニゾンを通して今跳ね返ってきている「人生の進退」に直面するには、ここまでのユニゾンの顛末を、生きているからこそ起こる問題として捉え、それを踏まえて「どうやって生きていくか」という方に考える必要があると思われる。

 

ユニゾンの3人がどう生きていくのかはそれぞれの個人活動を通して見ていくしかないだろう。後述するが、3人とも今後の活動予定は決まっている。

では私たちは?

私は?

 

 

本稿を通して私から万人に対し「こう生きるべきだ」とは口が裂けても言えない。本来明確な答えを定められる問題ではないし、それ以前に私たちひとりひとりにそれぞれの人生がある。

なので、この先に述べていくことは、あくまで私が現時点で考えついた、私個人のための、これからどう生きていくかの指針に繋がるかもしれないヒントたちである。

 

それらに辿り着くきっかけを与えてくれたのは、皮肉にもやはりユニゾンであった。

 

行き着いた先に辿り着いた人はその後どうすればいいのか

休息をとる

1つ目は休息。大前提である。

 

 

 

7月15日のライブ終了をもってUNISON SQUARE GARDENが活動休止に入ったのと同時に、田淵智也個人も音楽活動休止を発表している。

継続して携わり続けている、林直大(ex.フィッシュライフ)による音楽プロジェクト・多次元制御機構よだかのサポートベース(サウンドプロデュースも)と、声優アイドルユニット・DIALOGUE+の総合プロデューサー(とそれに伴う詞曲提供)の役職は例外として続けるが、もうひとつの所属バンド・THE KEBABS(ケバブス)も休止の意向を示しているほか、それ以外の他アーティストへの新規楽曲提供やラジオ・各種メディアへの出演なども一旦全てストップになるようだ。

彼の目に見える活動を遡るだけでも、ただでさえ精力的にライブを行っていたユニゾンに加え、ケバブスや多次元制御機構よだかも含めるとライブしてない日がないのではないかという活動量であり、楽曲提供・プロデュースも考慮すれば音楽のことを考えてない時間がないのではないかと思わずにはいられなかった。

体力や精神のキャパシティに個人差があるのは当然だが、彼のこれまでの活動量を見れば今回を機に十分休息をとるのもまた自然であろう。この期間に英気を養い、できれば音楽への熱を失くさないまま、健康に過ごしてくれることを願うばかりだ。

 

そして休息が必要なのは、心身が疲労しているのなら、誰もが同じである。

我々は田淵智也ではない。故に我々の大半は彼ほどのフィジカルもメンタルも持っていない。

そんな私たちがもし「人生の進退」なんて大層なことを考えるのであれば、まずは心身を整えてからだ。

「『こう生きるべきだ』とは口が裂けても言えない」とは言ったが、この一点、休息の重要性だけは断言してもいいだろう。わざわざエビデンスを示す必要さえない。彼でさえ休むことを選んだのだ。

進むも退くも、その主体が健在でなければ選ぶことさえできない。

 

 

本稿を、活動休止からひと月経過したこのタイミングで出すことになったのは、私自身が休息と自分の中での整理に時間を要したからである。

私の中である程度の整理がついたから、こうして書いている。

したがってこの先は、「その後」を考えられるレベルまで元気を取り戻した方向けの内容となる。”まだちょっと前とか向けないよ” *3  という方は一旦ここでPCやスマホを切っていただきたい。

 

ユニゾンの物語を相対化する

2つ目は、これまでユニゾンが物語のように劇的に示してきた信念・哲学・方法論、もっと言ってしまえば思想を、絶対ではないものとして捉え直す、いわば相対化である。

自分の中にあるユニゾンの考え方を一旦自分自身から離し、他の考え方と比較することである。

 

具体的に言えば、他のバンド・アーティストの音楽に触れ、ライブに行くことが有効な方法になりうる。

 

一番手近なのはユニゾン3人の今後の個人活動であろう。斎藤宏介のもうひとつのバンドであるTenTwentyや、田淵が関わっている先述の多次元制御機構よだか・DIALOGUE+は、ユニゾン休止前から休止後の現在に至るまで精力的に活動しているが、いずれもユニゾンとは異なるスタンスと魅力を持っている。なお鈴木貴雄はドラマー(ステージに立つプレイヤー・パフォーマー)としての今後の活動を「未定」としているが、それは将来に期待したい。

またユニゾンがこれまで対バンしてきたバンドに改めて触れるというのも手である。ライブ情報を少し遡り、ユニゾンが対バンに呼んだり呼ばれたりした頻度を確認すれば、どのバンドと仲が良いかというのはある程度分かる。親交があり何度も共演しているというのは少なからずユニゾンと共鳴する部分があるバンドの可能性が高いので、ユニゾンと異なる音楽であっても楽しめるかもしれない。

 

こういう対処法は、しばしば「依存先を増やす」と呼ばれる。

もちろんその役割もある。しかしここで主眼に置きたいのは「相対化」である。必ずしも特定の音楽に寄りかかることを意味しない。

当然の話だが、ユニゾン以外のどのバンドもそれぞれに信念・哲学・方法論を持っている。そのために具体的な行動を積み重ねた結果が楽曲・ライブを含め、総体としての音楽活動としてこちらの目に映るもののはずである。

そんな他のバンドやアーティストの在り方を、自分の中のユニゾン像と比較すること。結果「どちらが好きか」と感じることはあるだろうが、「どちらが優れているか」を安易にジャッジするのではなく、まずはその差異を興味深いものとして捉えることが大事なのだと考えている。

 

 

そもそもユニゾン自身が、対バンを通して他のバンドを観ることの重要性を訴えていた。

音楽フェスだけではなく、しっかりとした体験を以って他のバンドに触れることの大切さである。最新にして公式サイト上では最後となったメンバーブログの中でも言及がある。2024年12月、SHISHAMO、フレデリック、go! go! vanillas、光村龍哉(ZION/ex. NICO Touches the Walls)を呼んだ”fun time tribute”について次のように記載されている。

 

次は彼らのライブに行こう。僕も、これを読んでる君も。

だってロックバンドだから。ライブ行かなきゃわかんないこともあるんだよ。

 

そんなこともずっと言い続けて走り続けた20年だった気がする。やっぱり音楽聞いてほしいし、発見してほしいし、何よりライブに行って欲しいよ。

月1000円払えば、無限に音楽を聴けて、大型イベントに行けば、たくさんのバンドを手軽に知ることができる。

 

けど、そこで終わられるのはもったいないというか、困る。

ライブホールでライブハウスで体感しなければ分からない。そういう風にできてるんだよ。ロックバンドって。

効率は良くないかもしれないよ。お金かかるし。

ただ体感してもらうことで、人一人の人生は簡単に変わっちゃうんだよ、良い方に。

出典:BLOG | UNISON SQUARE GARDEN - official web site 「小生田淵がよく喋る2024年12月」 https://unison-s-g.com/blog/?category=tabuchi

 

ユニゾンに限らず他のバンドでも、「ロックバンド」はライブで体感をすることが重要だと書かれている。

つまりは音楽それ自体を知るだけでなくバンドの全体を体験すること。これはそのバンドの信念・哲学・方法論も含めてであろう。まさにそれらを克明に示してきたユニゾンが言うだけのことはある。ユニゾン以外のバンドの、多様な在り方も込みで、色々なバンドに触れる大切さを訴えていたのではないかと思う。

 

また田淵智也個人も、リスナーに、ユニゾンの考え方だけに囚われないことを望んでいた節がある。

唐突だが、田淵智也のX公式アカウントは2代目である。XがTwitterという名称であった時に初代アカウントが存在しており、当時は告知にとどまらず自身の考えを広く発信するものだった。

公式サイトのメンバーブログにあるようなバンドの方針や考え方を始め、ライブ終了後に披露した新曲のタイトルを発表したり、「都民は選挙行け」と促したり。果てはカレーやひじきの煮物を作った報告など、パーソナルな話も多かった。

既に旧アカウントは削除されており出典の明記はできないのだが、当時の投稿の中に今でも忘れられないものがある。ファンと馴れ合わないユニゾンとしては珍しい、Twitter上でフォロワー(=リスナー、ファン)から寄せられた質問に田淵が回答していくという企画の中でリスナー全体に向けられた言葉だったと記憶している。

 

“いいかい、俺なんてのはフェイクだ。”

 

もちろん私は全くそうとは思わない。仮に当時はそうであっても、現在においては、活動を通してフェイクを本物に変えたのがユニゾンだと思っている。

ただこの言葉からは、田淵自身ひいてはユニゾンの考え方、思想、方法論が決して絶対ではないという内省が示唆される。要は「鵜呑みにするなよ」と言っているように聞こえるのだ。

 

ひとつの考え方を鵜呑みにしないためには、他の考え方に触れ、並べて比較検討する必要がある。そしてそれを音楽、バンドを通して実践するのであれば、フェスの尺で体験できる情報量では不足しているのだと考えられる。

 

これを機に、ユニゾンとの親交の有無にかかわらず、他の音楽にもしっかり触れてみるのは有効な手のひとつだと思う。

これまでのユニゾンの考えを否定するわけではない。客席を煽らない、MCも極力しない、曲と演奏と構成だけで熱狂させる等々、ユニゾンの提示してきた考え方を基準にして他の音楽に触れるということである。

ユニゾン自体独特な存在であるため、どこがユニゾンと合致していて、どこが反しているか、どこに信念を置いているか、何故そうしているか、といった観点をもって音楽を体験することは、必然的にユニークな深い洞察に繋がり、知らない音楽であってもその体験全体が楽しくなるはずだ。

そしてその結果形成された自分独自の考えが、ユニゾンと異なるものになる可能性も、もちろんある。

 

私も実践しようとしている最中である。

例を挙げると、特に象徴的なバンドのひとつにa flood of circleがいる。

 

youtu.be

 

ユニゾンと古くから親交がある盟友。幾度となく対バンもしており、互いに「ロック」「ロックバンド」をただの音楽ジャンルを超えた概念として捉え重視している。一方、曲を聴けば分かるように、歌も演奏もユニゾンとは志向が異なっている。

ここ最近において最も顕著な違いとして映ったのは「20周年」「日本武道館」に対するアプローチの違いである。a flood of circleはユニゾンから2年弱遅れた今年、結成20周年記念公演として日本武道館でのワンマンを開催した。

この点はユニゾンと全く同じである。だが、ユニゾンが結成20周年当日に日本武道館で人生全てを結実させる作り込まれた集大成のライブを実現したのに対し、a flood of circleの場合は「聖地」とも呼ばれる日本武道館において、あえて作り込まず極めてラフで型破りとしか言いようがないライブを繰り広げたようだ(Vo./Gt.佐々木亮介は当日客がまだ物販に並んでいる最中に客を掻き分けて会場入りし、本番10分前に客席を通ってステージに上がりそのまま平気でサウンドチェックを始めたという。本番直前のリハーサルは当然ない)。挙句の果てに公演の最後に、自分たちの古巣であるキャパシティ250のライブハウス・下北沢SHELTERにて「明日」ライブを行う告知をし、翌日夜その通りに敢行したという。どうやら活動初期から武道館ではなく「日本武道館の翌日に下北沢SHELTERでライブをする」ことが夢だったようだ。

donutroll.tokyo

 

両バンドとも「20周年」「日本武道館」に対する並々ならぬ想いがあったであろうことは言うまでもないが、その想いの示し方、特に自分たちの信念の根幹と思われる部分をどう表現したかが全く異なっている。

ではこのバンドがユニゾンと仲がいいのは何故か?日本武道館を終えたユニゾンが現状最後のワンマンツアーの間ずっと、レコード会社が同じでもないのに、会場物販にポスターまで掲げてa flood of circle日本武道館公演の宣伝をしていたほどシンパシーを感じているのは何故か?

そうしたことを今は考えている。恥ずかしながら私はまだワンマンライブの尺では観たことがなく、残念ながら日本武道館も翌日の下北沢SHELTERも参加が叶わなかったため、次のツアーである20周年記念ベストアルバムレコ発、来年1月の豊洲PIT公演のチケットを確保した。実際に観て何を感じられるのかとても楽しみにしている。

 

afloodofcircle.com

 

「行き着いた先」の「その先」を探す過程を目的化する

3つ目は発想の転換である。「行き着いた先」の「その先」を見出せないのであれば、それを探すこと自体を目的にしてしまおうということだ。

そうして探す過程で行ったことが、思いもよらないものを生み出し、そこに人がついていくことはままある。それが「その先」に接続され、これからの人生を続けるための糧になることは十分考えられる。

 

ユニゾン3人のユニゾン外の活動、つまり斎藤のTenTwentyやスペースシャワーTVの冠番組「斎遊記」、田淵のTHE KEBABSや楽曲提供・プロデューサー活動、鈴木のゲーム実況者・YouTuberとしての活動もこれに類するものと思う(だからこそ休止後も各々活動予定が決まっている)が、私が特にこの考え方の重要性を実感したのは2025年以降のユニゾンの活動を通してである。

2025年以降は活動方針がぼやけてしまっていたように思えると書いたが、これは色々と今後の可能性を模索していたことの裏返しと捉えることもできる。そしてこの時行った取り組みが必ずしも全て良くなかったわけではなく、前向きな可能性を感じられることも確かにあった。

現状最後となったホールワンマンツアー、「うるわしの前の晩」内の演出もそのひとつと思われる。

ライブ中盤、11曲目「夜が揺れている」を、田淵による不穏なベースソロから始めたのだ。

 

natalie.mu

 

ユニゾンのライブにおいて、楽曲やセッションの中で田淵がベースソロを披露することは頻繁にあった。だがライブ限定のアレンジとしてソロから始めること、ましてユニゾンのパブリックイメージとは異なるような、暗く、深く、重厚なリバーブの音を鳴らすソロは、私が記憶している限りなかったはずだ。

よく演奏技術の高さを評価されるユニゾンにおいて、田淵は自身のベースの腕前について語るとき謙遜することが多かったように思う(もちろん彼はそんな必要ないほどの技術を有している)。そんな彼がベースソロからセッションと演奏を始めたというのには大きな意味を感じずにいられなかった。

ここで演奏されたのがライブでは珍しく、かつての「闇期」にあたる2ndアルバム収録曲にしてユニゾンの中でも屈指の悲しさを誇る曲であったことの意味は想像するしかないが、とにかく私がこれを観たとき率直に思ったのは、「21年以上やってきてまだこんな引き出しがあるのか」というポジティブな驚きだった。こういうやり方があるのなら、少なくともライブの作り方、表現の仕方においてはまだまだ拡張の余地があり、当分行き詰まることはないだろうと。

それだけに、今後思いもよらぬ方向に拡張する可能性もあったユニゾンのライブを観られなくなるというのは、残念と言う他ない。

 

ただ、こうしたアプローチを自分自身の人生に置き換えると、「これまで積み重ねてきたことの中でまだやったことがないことを試す」と換言でき、これから重要になってくることなのではないかと思っている。

 

これについてもうひとつ、ユニゾンの個人活動の中からも例を挙げるなら、やはり田淵智也のソロカバーアルバム「田淵智也」発売と、トークイベント「田淵智也」の開催、アルバム購入者特典のサイン会お渡し会は外せないだろう。

流れとしてはまず「生誕40周年記念」と銘打って、田淵と親交のある友人、音楽関係者たちと田淵が1対1で語り合うトークイベントが発表され、その第1回終了後にソロカバーアルバム制作が突然発表された。ケバブスではボーカルに加わることもあったが、ユニゾンでは当然そんなことはなくベースとコーラスに専念していた田淵が、一人で、自分の歌声で歌った作品である。

ベースについて訊かれて謙遜し、折に触れてユニゾンにおける斎藤宏介の歌声の重要性を語り、パフォーマーとしての自身は若干引いたスタンスであった(ただしライブ中は大暴れすることで有名である)ことを踏まえると、これまでは全く考えられなかった行動である。

 

 

アルバム購入者向けのサイン会と、翌2026年4月の、抽選に外れた人向けのサイン入りジャケットお渡し会はさらに顕著である。ユニゾンの「コール&レスポンスをしない」「客にノリ方を強要しない」という考え方はまとめて「客と過度な馴れ合いをしない」と表現されることが多かった。ファンを大事に思っているものの、あくまでも自分たちとオーディエンス=ファンはステージと客席を隔てた他人同士であるというスタンスである。

そんなスタンスの中心人物であった田淵智也が直接ファンと会いサインを渡す。これは異常事態と言ってもよかった。私は抗えず応募したものの、一方で「そこまでやっちゃっていいのかよ」とも思った。いくら田淵が40歳を迎えたお祝いとはいえ、ユニゾンが20周年を終えこれまでに囚われず色々模索していたかもしれないとはいえ、これまで確固たる信念として提示されていたものとはかなり反していたからである。

 

だが蓋を開ければトークイベント・サイン会・お渡し会いずれもとてつもない倍率であり大盛況だった。つまりカバーアルバムもそれだけ売れたということである。

サイン会では田淵と言葉を交わす時間があり、ユニゾンのこだわりを熟知しているはずの往年のファンの方々による感極まったレポートが数多く流れてきた。私も、お渡し会の方に参加したのだが、数秒程度の限られた時間の中でも目を見てジャケットを手渡し、笑顔で応えてくれた姿には本当に胸が熱くなった。

 

そして田淵はトークイベントを、「自分の「身の丈」を決定づける」「自分の限界を改めてしっかり受け止める」イベントであったと総括した。その上でこれからの人生を「身の丈」の範囲内で精一杯好き勝手やっていくと示した。

 

 

 

これらのファンに会う施策がユニゾンのこれまでと反していたと書いたが、自ら矢面に立ち、ファンや仲間たちと直面することで、自分自身の限界と向き合いこれからの人生を考える、という側面では、彼の中で矛盾はなかったのかもしれない。

そしてその模索自体が私たちを喜ばせ、万感の思いにさせたのであり、私たちにとっても確かに何かの糧になったのである。

 

田淵が上記の投稿内で総括した内容が全てとは思うが、ここから得られる洞察を自分なりに言葉にするのであれば、「これまで積み重ねてきたことの中でまだやったことがないことを試す」こと、中でも他者や外界全体に身を晒すことが、そのまま自分自身を知ることに繋がる、ということになる。それは長期的ではないかもしれないが、一定期間を生きる目的たりうる重要なテーマであり、終わった後も、今後どうしていくか決める重要な指針になるだろう。

誰もが田淵と同じ結論に至るはずがない。私自身、彼はこう言うけど、できるか否かはともかくやはりまず一度自分自身の枠組みを取り払うことが大切なのではないかと現時点では考えている。

先述した「相対化」とはそういうことでもある。自分の価値観やアイデンティティがある単一の考え方と不可分になってしまうと、その考えが崩れたら自分も共倒れしてしまう危険性があるというのが、今回の活動休止で改めて顕在化した問題である。それを避けるために自分の中の考え方から一度離れ、自分の外にある考え方に触れることが大事だ、というのが「相対化」であり、とどのつまり自分の「身の丈」から離れたところに手を伸ばすことを意味する。

ただ「身の丈」云々を基準にして人生の方向性を決めるのは、まず今できることを試して、自分の限界を見極めた後なのだろう。自分の範疇の内外問わず試すことの大切さは胸に刻んでおきたいと思う。

 

「行き着いた先」に何もない可能性を直視し、その上で「ある」ことにする

4つ目、最後のひとつである。これが一番厳しく、私自身できているとは到底言えない。

しかし、こういうやり方ならできる可能性がある、いや、結局こういうやり方でやっていくしかないのではないか、という方法には、思い当たるものがある。繰り返しになるがここまで読んでくださっている方に無理強いするものでは決してない。私自身の「こういう風にできるようになりたい」という願いのもと、以下に書いていく。

 

ここまで書いてきたことは「行き着いた先」の「その先」を生きていくうえでのヒントに過ぎず、「その先」を保証するものでは決してない。

身体は休まっても心の空白は消えない。あれこれ手を伸ばしてもユニゾン以外に興味深いと思える音楽と考え方を持つ存在が見当たらない、あるいはユニゾンとの違いに興味を持てない。色々なことを試しても「その先」に繋がる何かが見つからない、あるいは試す手段の見当さえつかない。

こうした限界はどうしても存在しうる。私自身も活動休止前最後のライブからひと月経った現在、ある程度は現状を受け止められたとは思っているが、やはり上記のような考えが常に頭のどこかに存在し、今も時折よぎっている。

認めたくはないが、「その先」を考える限り、つまり生きている限りは結局この限界から逃れられないのだと思う。

 

となると、やはり自分の中で、どこかで折り合いをつけなければならないのかもしれない。「行き着いた先」に何もない可能性があることを、である。

 

人間の行う表現には、これ以上ないほどのギリギリの極限まで突き詰めた結果たどり着ける領域が存在し、それは「行き着いた先」と表現しうる。

その次元に達した表現に触れることは折り合いをつけるための助けにはなるかもしれない。

 

「行き着いた先」の例として冒頭で挙げたのは小説だった。UNISON SQUARE GARDENにおいては結成20周年当日の日本武道館公演”ROCK BAND is fun.”がそれにあたるという話をしてきた。

実はユニゾンには、ライブではなく楽曲単体でもこの「行き着いた先」に比肩しうる曲がいくつか存在する。

先述の通り歌詞に「行き着いた先」とあるのは「シャンデリア・ワルツ」だが、実はこの曲が示しているのは「いつか『行き着いた先』に到達したときどう思うか」ということであり、「『行き着いた先』そのものが一体どういうものなのか」ではないと思われる。

楽曲全体を通して「行き着いた先」の在り様を想起させるユニゾンの曲は何か。議論が巻き起こってしまうかと思うが、歌詞だけに着目すれば、明確にこれを描いていると思われる曲がひとつ存在する。

20周年記念ベストアルバムのために書き下ろされた楽曲、「アナザーワールドエンド」である。

 

気づくのは今日じゃなくて明日じゃなくて 来年再来年でもなくて

もっと先かも歳とって立てなくなって 君の声も忘れちゃって

世界に溢れる音楽が全部つまらなくなって

誰も争いを止めることができなくなって

名も知らない砂浜に1人座り込んで

波の音がこの瞬間に結びついた時かもしれない

出典:UNISON SQUARE GARDEN アナザーワールドエンド 歌詞 - 歌ネット https://www.uta-net.com/song/357649/

 

 

自分たちのバンドキャリアとしての「行き着いた先」を超えて、人類そのものの「行き着いた先」までも見据える凄まじい歌詞であり、人間の可能性の限界とそこに対する諦観さえ感じられる。

20年の節目に出た新曲にこの歌詞が含まれていた意味はできれば深く考えたくはないが、こうした点から私の頭の中に「ユニゾンの終わり」が可能性のひとつとして生まれ、いつか来るべき時に備えた方がいいのかもしれないと思わされたのは確かだ。

音楽・小説等媒体問わずこうした表現は、人間の可能性の限界がどういうものなのかを知る手掛かりにもなりうる。知ることは得体の知れない恐怖を緩和する。「行き着いた先」が仮に「無」であったとして、その「無」を避けられなかったとしても、相対する心構えはできるのではないだろうか。

 

 

そして話はここで終わらない。アナザーワールドエンドの歌詞は次のように続く。

 

それでも僕ら

 

 

それでも。

私はこの先に続く言葉として、「無」に相対する手段として、「行き着いた先」の「その先」がなくても「ある」ことにする、というやり方ができないかと考えている。

 

4月27日にユニゾンが鈴木の脱退とバンド活動休止を発表して以降、誰もが悲しみに暮れていたが、その中でもどうにか折り合いをつけ、自分自身の生活やすべきことをしようとする人もたくさん存在した。

中でもユニゾンについて日常的にSNSで語っていた方々が、内心はそうでないにせよ外から見る分にはいつも通り、ユニゾンの好きな曲、好きな歌詞、特定楽曲に対する(ある意味歪んだ)愛情、永久にセットリストに入らない曲に対する嘆き、極めつけは存在しないライブの存在しないセットリストの妄想、といったことを語っていたのには本当に勇気をもらった。

これは、自分の人生の「その先」が不透明であっても、何かが「ある」と信じるからこそできる営みではないかと思う。

私自身もそうしようと思ったができていたかは怪しい。だが、その末席に加われたことは誇りである。

 

summerday.hatenablog.com

 

btaim-polerground.hatenablog.com

 

ユニゾンがなくなったわけではないが、不在となり、音楽活動とそれを通して示される概念の更新が止まったのが、今である。

だがユニゾン不在でもユニゾンの話はできる。

ならば「行き着いた先」の「その先」が「無」でも、「その先」の話はできるはずだ。

存在しないライブの存在しないセットリストの妄想ができるのであれば、存在しない「その先」に存在しないはずの道筋を想像することだってできるはずだ。

それを確かなものにするために必要な手段が、何よりまず心身を整え生きることであり、ユニゾンを始め素晴らしいバンドが示してきた概念を足掛かりに独自の洞察と信念を身につけることであり、それを以って他者や外界に自分自身を晒してできることを試すことなのだと思う。

 

 

冒頭に挙げた「ハーモニー」を初めて読んで以降、「人間の感情や思考は決して特別なものではない」という問題は、今なお折に触れて襲い掛かってきている。

初読から10年近く経った今、明確な科学的根拠は提示できないものの、実のところは「人間は感情や思考を特別なものと信じることで本当に特別なものとして機能させている」のではないかと、私は考えている。

それは奇しくも、ただの言葉である「ロック」「ロックバンド」に特別な意味があると信じ、そのための思考と行動を重ね、本当に意味のある概念に変えていく道筋と相似している。

 

 

行き着いた先に、何も無い。

大いに結構。

何も無いなら、「ある」ことにして勝手に先に進む。

”息をする僕らは構わない”と、信じて進んでみせる。

 

今、そう言い切り、実現できるようになりたいと、強く願っている。

 

そういう筆者はどうするつもりなのか

少しだけ私の話をさせていただくと、人生の根幹に位置するほど好きなバンドが活動休止したのは、今回が初めてではない。

 

生まれて初めて好きになったそのバンドは活動休止した後、解散を選択した。

活動休止後にボーカルが新たに結成したバンドもまた活動休止し、7年近く音沙汰がない。

その時の気持ちと、当時出した答えを文章にしたことがある。

 

rockinon.com

 

好きなアーティストが活動をやめたとき、私たちはどうすればいいのか。当時の答えは「感謝を言葉にし、その人たちが存在した事実を残すこと」だった。

あれから時が経ち、全てが変わり、人生に関わるほど大きな活動休止の二度目を体験した。あの時の答えは間違いではなかったが、今、もう一歩先の答えが必要になったと感じている。

本稿は、未だ完全版ではないが、その答えの更新版である。

 

最初に好きになったバンドは、活動休止時の経緯をこう説明していた。

 

「ですが、あるとき確信したことがあります。歪なものは、長く形を保てないということです。素晴らしいものが素晴らしいうちに終わりにしたくて、私はメンバーとスタッフに解散の相談をしましたが、ひとまず休止という形をとることになりました」

出典:School Food Punishment、内村友美脱退に伴い解散 - 音楽ナタリー 

https://natalie.mu/music/news/70881

 

ここから、「歪なものが歪なまま続くのがバンドである」という考えが私の中に生まれていった。

やがて活動休止の穴を埋めるように、バンドを中心に色々な音楽を聴くようになり、次第に考えが固まっていった。その過程で出会い熱中したバンドのひとつがUNISON SQUARE GARDENである。

ユニゾンが結成から10年、20年と息の長い活動を重ねていったこと、それを観られたことは私にとっての希望として映った。歪なものは歪なままでも長く続けることができるという可能性を示してもらったように思えたからである。

 

今振り返ると、それが希望であると思えたのは、私の中にも歪なものが存在していたからに他ならない。

歪なものを抱えたまま、何かを表現し、懸命に生きようとしている人たちを見ることで、私の中の歪なものが肯定されたように思えたのである。

それが悪いこととは思えない。その考えがあったから音楽が趣味になり、思いもよらないような出来事を数多く経験でき、総じてここまでの人生はある程度楽しく豊かなものになっている。

だがやはり、特定の誰かを通してのみ歪なものを肯定するのには限界がある。誰かがいなくなったときに肯定の根拠ごとなくなってしまうからだ。なくなる度にまた別の根拠となる誰かを探すという方法も考えられるが、いたちごっこであり根本的な解決ではない。私自身今回の二回目で限界を感じており、いつまでも続けられるとも思えない。

 

 

あくまで私個人の話であり今後変化する可能性もあるが、今、「行き着いた先」の「その先」に「ある」ことにしたいのは、一言で言うと「歪なものが歪なまま続けられる世界」*4ということになる。

私に限らず誰もが自分の中の歪なものを損なわず生きられるようになったらいいなと思っている。

現時点ではただの夢物語であり、願いにすぎず、最終的に実現できるとも思っていない。だいいち問題設定も定義もゴールも具体性に欠けている。もしかしたら現実の社会課題などを通して考えたりボランティアなどを通して近いことができるのかもしれないが、現状具体的に何をやったらいいか全く考えついていない。

ただ、実現できるか否かは別として、「その先」にあるものとして、これからの生きがいとして存在を仮定しておく分には十分アリなのではないかと考えている。

 

そのためにはきっとまず自分からだ。

「世界は変わらなかった」という結論にはなってしまったものの、ユニゾンが言ってきた「世界を変える」という大言壮語に説得力があったのは彼ら自身に積み重ねがあったからである。

世界の有り様を論じたいなら、まずその前に自分自身をどうにかする方法から試すのが筋なのだと思う。

 

つまり、自分の中にある歪なものを、自分だけで肯定できるようになること。

言い換えれば──もう散々あらゆる人の間で言い尽くされた言葉であり、面白みには欠けているし、自分自身100%信じきれていない概念であり、正直こう表現したくはないのだが、要するに、

 

「自分を好きになる」

 

ということになる。

なってしまう。

 

 

これからも引き続き色々な音楽には触れ続けるし、ライブにも行くし、もちろんユニゾンも聴き続ける。辛く苦しいとき音楽に肯定を求めて寄りかかることも、おそらくやめられはしない。

だがその過程を経て、最終的に自分の足で立てるようになるための糧を、見つけられるようにしていきたい。

 

そして私自身が歪なものを肯定できるようになったとき、その延長線上の世界を本当に実在させるべく、具体的に手を動かせるような人間になっていたいと、今願っている。

 

 

おわりに:”Sentimental Period”とは何だったのか

 

2026年7月15日。

私が好きな音楽を作り続け、生き方においてもひとつの指標であったスリーピースロックバンドが、ドラムの脱退および現体制終了に伴う活動休止前最後のライブ、”Sentimental Period”を幕張メッセにて敢行した。

人生の集大成とは何なのかを私たちに示してくれた人たちが、今度は人生の一区切りとは何なのかを私たちに示した時間だった。

 

b-pass.online

 

「活動休止前最後のライブ」という、誰が見ても重大な意味のあるライブだったが、その大きさに反して驚くほどあっという間の時間だった。

有名曲や定番曲を外さず、それ故、高密度の曲と演奏が矢継ぎ早に繰り出され、最後の最後までMCを挟まず、アンコールもなくスパッと終わらせる。最後のセクションとMCを除いては、ユニゾンが信念としてずっと掲げてきたいつも通りのライブのスタイルだったからだ。そんなライブだったため、名残惜しさのあまり終演のアナウンスが流れた後もずっと客席からの拍手が止まなかった。

終わった後に私の中に残ったのは、「終わるな、行かないでくれ、寂しくなるだろ」という私の嘆きと、それと裏腹ないつも通りのライブの満足感と、3人のこれまでの全てに対する溢れんばかりの感謝と、それら全てに匹敵する「これからどうしよう」という思いだった。

 

ライブについて語るべきことはたくさんある。が、このライブについて何らかの意図を考えるのはどうしてもピンと来ない。

1曲目、9thアルバム最後の曲「フレーズボトル・バイバイ」の直後に初の全国流通盤1曲目「アナザーワールド」が披露された一方、そのアンサーと言える「アナザーワールドエンド」はやらなかったこと。このライブのタイトルでありメジャー1stシングルである「センチメンタルピリオド」が最後に配置されず、直後にユニゾン屈指の荒唐無稽さを誇る「徹頭徹尾夜な夜なドライブ」が演奏されたこと。最後に演奏されたのが2024年7月24日日本武道館の1曲目であり、ロックバンドの「正しくなさ」を示した「Catch up, latency」であったこと。

どんな難曲の連続でも涼しい顔で歌いきる斎藤宏介が、この日の終盤は明らかに限界を超えていたこと。

「シャンデリア・ワルツ」をやらなかったこと。

 

ハイライトは数えきれないほどあったが、ここから明確な意図を読み取るのは非常に難しい。

特に1曲目の「フレーズボトル・バイバイ」がどうしても分からない。実際に聴いてみていただきたいが、この曲はアルバム最後としても区切りのライブの1曲目としても妙に楽天的かつ、「始まり」とも「終わり」とも捉えられない歌詞をしているからだ。

あえて言うなら、このライブはアンビバレントな、「どちらともとれる」ライブだった。

だからこそ、自分自身の前途に対する迷いまでも浮き彫りにされたのだと思う。

 

そしてこの日最後のセクション、鈴木貴雄による最後の大舞台を観て余計にそう思った。

「Catch up, latency」を終え、本当の最後に披露されたのは、約7分に及ぶ鈴木貴雄のドラムソロ。ユニゾンのライブ中盤~後半に欠かせなかった名物が最初で最後のトリを飾る形となった。

初めてユニゾンのライブを観たとき、ギターもベースもなく音階のないリズムの躍動だけでこれほど人が沸くという事実に圧倒されたことを思い出し、彼の存在がいかに偉大だったかを心の底から実感した7分間だった。

そのドラムの躍動はやがてバスドラム単体となり、心臓の拍動が次第に弱まるかの如く徐々に速度を落とし、心停止するかのように、止まった。

 

そして全ての演奏を終え、独りステージに残った鈴木が口を開いた。この日唯一にして、彼のUNISON SQUARE GARDENとして最後のMCは以下に残されている。

 

 

 

 

またね!

 

ライブを終えて私は、このたった3文字の言葉をどれだけ信じられるか問われているような気がした。

一度止まった心臓が再び動き出す可能性があることをどれだけ信じられるか。

例え「また」が存在しなかったとしても、である。

 

 

鈴木貴雄の今後の活動だが、先述の通りドラマーとしては未定である一方、新たに音楽事務所を立ち上げ、対バン企画、アーティスト育成とそのためのオーディション、さらにはドラムの動画レッスンサービスと、次々新たな施策を発表している。

 

youtu.be

 

彼が20周年日本武道館のMCでも語っていた、アーティストとオーディエンスそれぞれが持つ「熱」が相互に影響しあい互いの火を燃やし続けるという「循環」。これを彼独自の、より具体的な方法で実現しようとしているのだろう。

特に対バンについては、ユニゾンに居たままでも実現できなかったのか、と思わないと言ったら噓になる。だが今の鈴木貴雄は、まさに「行き着いた先」の無の中に、あるか分からない「熱と循環」のサイクルをあると信じて、歩き出したように見える。その在り方は心から尊敬できるものであり、偽りなくこれからも応援していきたいと思う。

彼がユニゾンの中で燃やしていた火種は、7月15日を機に、次へ託されたと見るのが妥当なのだろう。

 

そう、この「熱」の実在をどれだけ信じられるかも、きっと今問われている。

 

 

「またね」という言葉と「熱」。

「行き着いた先」の「その先」を構想するにあたり、この二つは提示されているに過ぎない。

信じるか否か、そしてどう信じるかさえ、自分に委ねられている。

 

 

今の私が選ぶのは、おそらく悪い意味で器用で、都合が良くて、アンビバレントな信じ方である。

そんなものは「ない」という可能性を直視したまま、「ある」ことを信じるやり方である。

完全に矛盾している。

 

その矛盾は「歪なもの」と呼べるかもしれない。

もしかしたらそんな在り方を貫けることは、「歪なものが歪なまま続けられる」こと、自分の中の歪なものを肯定できること、あるいは、本当はこう言いたくはないが、「自分を好きになる」こと足り得るのかもしれない。

まずはそこから試したい。

 

 

 

だからこそ。

その信じ方の第一歩として、「またね」も「熱」も信じながら、一旦、彼らに別れを告げる必要がある。

 

 

斎藤宏介さん。田淵智也さん。

鈴木貴雄さん。

3人のUNISON SQUARE GARDEN。

 

ありがとうございました。

あなた方の鳴らした音楽は、あなた方は、これからも愛すべき人生のロールモデルです。

 

 

もしどこかですれ違うことがあったら。”またいつか”があったら。

その時は楽しい時間を派手に見せてくださいね。

 

 

 

そんな時間が「ある」可能性だって、ちょっとぐらいは信じてもいいでしょう?

 

 

 

*1:出典:プログレッシブ・ロック - Wikipedia

*2:出典:BLOG | UNISON SQUARE GARDEN - official web site 「小生田淵がよく喋る2021年10月」 https://unison-s-g.com/blog/?category=tabuchi

*3:出典:UNISON SQUARE GARDEN ぼくたちのしっぱい 歌詞 - 歌ネット https://www.uta-net.com/song/275518/

*4:本稿の趣旨から大きく外れるため本文には書きませんでしたが、これは必ずしも「平和」な世界を意味しないと考えています。個人と他者や社会との間に摩擦が絶対に発生しうるからです。そのあたりの折り合いのつけ方、落としどころも、個人にできる範囲で考えていきたいと思います。

あの鳥には、世界はどう見えていたんだろう―「場違いハミングバード」を通して見た世界―(D.A mix=加筆修正版)【DUGOUT ARCHIVIST】

(Canvaにより生成)

 

0.この文章について

この文章は、ナツ(@unfinisheddaisy)さんによる企画「DUGOUT ARCHIVIST」へ寄稿したものです。

内容としては、2025年に参加させていただいた、UNISON SQUARE GARDENの3rdフルアルバム「Populus Populus」の収録楽曲について文章化する企画、「Populus Populus Prologue」にて寄稿した文章の加筆修正版となります。

当時の企画の詳細は下記記事より参照いただくか、旧Twitter(現X)にて#PP_Prologueで検索してみてください。

 

summerday.hatenablog.com

 

今回の企画は、UNISON SQUARE GARDENが2015年、結成10周年に際して発表した初のベストアルバム「DUGOUT ACCIDENT」の収録楽曲について自由に文章を書くというものです。過去の楽曲の一部が「D.A mix」(再ミックス版)として再録されていることになぞらえ、過去に企画で書いた文章の加筆修正という形で、出来る限り2026年現在を反映した内容になるよう細部を変更しています。

今回の企画の詳細は下記記事を参照いただくか、旧Twitter(現X)にて#DUGOUTARCHIVISTで検索してみてください。

 

 summerday.hatenablog.com

 

 

 

この文章のみを読んだ方、まだ「DUGOUT ACCIDENT」を聴いたことがない方、ひいてはUNISON SQUARE GARDENを名前くらいしか知らない方にもできる限り伝わるように心がけましたが、それでも不明な点があるかもしれません。ご了承ください。

 

 

この企画全体を通し、お手持ちのCDプレイヤー、サブスクリプションサービス等音楽媒体の再生ボタンを押し、今改めてUNISON SQUARE GARDENに触れる方が増えるのであれば、これに勝る喜びはありません。

そして企画の1ピースであるこの文章が、わずかでもボタンを押す手を加速させる助けになれていれば、なお幸いです。

 

 

それでは、本題に移ります。

 

 

 

🦢  🦢  🦢

☕  ☕  ☕

 

 

 

 

 

 

 

 

スタンディングダウン とられて不愉快なファイティングポーズ
手ごろなお値段でサバイバー みたいなジョークで 手術中につきご法度です

出典:UNISON SQUARE GARDEN 場違いハミングバード 歌詞 - 歌ネット

https://www.uta-net.com/song/115474/

 

 

やっぱりまるで意味が分からない。

 

 

 

 

 

 

1.アルバム「Populus Populus」と「場違いハミングバード」そしてベストアルバム「DUGOUT ACCIDENT」とは何か

2011年7月6日発売、UNISON SQUARE GARDEN(ユニゾン)の3rdアルバム「Populus Populus」

4thシングル「スカースデイル」とそこに収録されたTVアニメ「ソウルイーター」リピートショー(再放送)OPテーマ「カウンターアイデンティティ」、そしてユニゾンが最初に広く知られるきっかけとなったTVアニメ「TIGER & BUNNY」OPである5thシングル「オリオンをなぞる」を含む13曲で構成されている。ユニゾンが音楽の幅、完成度、知名度を上げた躍進のフェーズをパッケージングしたアルバムと言える。

 

私にとってはこれが初めて聴いたユニゾンのアルバムだった。

TVから流れたカウンターアイデンティティでUNISON SQUARE GARDENという名前を知った。カッコいい曲、痛烈で印象的な歌詞だと思いつつしばらくは何もしていなかったが、あるときYouTubeにあったオリオンをなぞるのライブ映像を見て、何かを強く突き動かされた。

どうしてもあの「オリオンをなぞる」という曲が忘れられない、常に手元で聴けるようにしておきたい、という思いから商品情報を調べたところ、カウンターアイデンティティとオリオンをなぞるの2曲が併記されているのを発見。このとき初めて、2曲が同じ人間たちから生み出されていることを認識した。

「どうせ聴くなら、好きな2曲とも同じ1枚に入っていて、いっぱい曲が聴ける方がお得」

という素朴な理由から、シングルではなくアルバムを選択。というのが、私がPopulus Populusを手に取った経緯である。この時期にユニゾンを知った多くの方は似た経緯を辿ったのではないかと思う。

 

Populus Populus - UNISON SQUARE GARDEN

Populus Populus - UNISON SQUARE GARDEN

Amazon

 

そして、カウンターアイデンティティとオリオンをなぞる目当てでアルバムを手に取り、先頭から再生したが最後、1曲目「3 minutes replay」と2曲目「kid, I like quartet」のシームレスな繋ぎに驚き、そのまま全曲聴かざるを得なくなる、というのも多くの方に共通していると思う。当時の私も例外ではなかった。

私のユニゾンへのイメージは最初にハマった2曲が基準となっていたが、アルバムを聴き進める度イメージの強化と更新が絶えず繰り返された。最初にハマった2曲の好きなところを再発見しつつ、幅の広いアルバム楽曲を通しユニゾンの知らない側面を知ることは非常に有意義だった。

 

アルバム8曲目「CAPACITY超える」などはまさに知らない側面だった。”僕らは声が枯れるまで 存在し続けるんだよ太陽に背を向けながら”*1”ナイフを持つ、その、本当の意味”*2といった芯を突く印象的な言葉を放っていたユニゾンが、”昨日の夜から 冷蔵庫扉が開いてる”だの“大好きだったドラマ 楽しみだったけど 先週末で終わってる”だの*3、日常的かつ具体的なやらかしの数々をジャジーなサウンドに乗せて歌っている。

 

note.com

 

上記の記事は、CAPACITY超えると、日常の些細なストレスでうまくいかない一日をリンクさせる形で楽曲を語った文章である。この曲の持つ、ユーモラスに描かれる日々のままならなさへのシンパシーと、それでも自分を大切にし、楽しいことへ向かわせるポジティブな力を鮮やかに表現している。私も全く同様のシンパシーを感じたが、改めて見るとやはり日常生活に当てはまりやすい曲だと思う。

ユニゾンはそういうところから距離を置いた抽象性のある言葉が多いと思っていたが、このように親近感が沸くのは嬉しい驚きだった。

 

だが直後。

 

 

 

「1,2,3,4」

 

 

すかさず繰り出される爆撃のようなバンドアンサンブル。

程なくして聞こえてきた言葉。思わず一時停止し、歌詞カードを見返さなければならなくなった。

 

スタンディングダウン とられて不愉快なファイティングポーズ
手ごろなお値段でサバイバー みたいなジョークで 手術中につきご法度です

 

 

お前は何を言っているんだ??

 

 

これが、「場違いハミングバード」であった。

 

 

 

初めて聴いた当時は音楽そのものにハマり始めたばかりで、歌詞というものがどう作られるか検討もつかなかったが、必ずしも明確な意味や一貫性が必要ではないことはなんとなく理解していた。

音楽における言葉は、音、リズムとの親和性や、言葉単体の持つ響きという、内容理解とは別の要因が魅力につながるらしい。極論カッコいい言葉の連なりがリズムと噛み合っていれば、抽象性、散逸性、難解さ、文法的なエラーさえスパイスとなりうる。そういうやり方があることは別の音楽を通した体験から知っていた。

School Food Punishment line 歌詞 - 歌ネット

 

そうは言っても場違いハミングバードの歌詞には冒頭から困惑させられた。前曲のCAPACITY超えるが共感しやすいシチュエーションの羅列だった分、余計にそう感じた。さっきまでの親近感はどこへやった?

直喩を示す「みたいな」が分かりやすさに1ミリも寄与していない。どこまでが比喩で何が「ジョーク」なのか。というか手術中なのか?歌っている場合か?

このように、この曲の第一印象は「意味が分からない」であった。

 

 

現在。

私がUNISON SQUARE GARDENを知ってから、過去の音源に触れ、リアルタイムで新譜やライブを追いかけるようになるまでの間、場違いハミングバードは幾度となくライブで演奏されてきた。今や、出だしの雄叫びに等しい「1,2,3,4」のカウントだけでたちまち客席が熱狂する、必殺の一曲として歴史に刻まれている。

そして結成20周年を越え、バンドの有する音楽の手札が出そろった今なら、この曲についてより深く考えることができるように思える。

本稿の目的は、アルバム「Populus Populus」発売から2026年現在に至るまでのユニゾンの音楽の拡張や変遷を踏まえて、長く難解だった「場違いハミングバード」の全容について解釈を試みること

 

 

 

 

 

 

ではない。

 

 

 

 

 

現在においても、この曲が「分からない」ということに変わりはない。

 

 

 

 

そもそも解釈を試みて答え合わせがしたいのであれば、20年以上の歴史に照らす必要さえない。10周年時点で答えはほぼ出ている。

そのことを悟ったのが、2015年7月15日発売、バンド初のベストアルバム「DUGOUT ACCIDENT」にこの曲が再録された時である。

 

 

 

本作の初回生産限定盤の歌詞カードはブックレットとなっており、歌詞の後にはライナーノーツ(メンバーによる楽曲解説)が収録されている。改めて歌詞を見て「やっぱり意味分かんねえな」と再認識した後、これを読めば何かわかるのだろうかと場違いハミングバードの解説に目を通すと、作詞作曲Ba.田淵智也が次のように記していた。

 

なんか書きたいこと色々考えたけどどれもピンとこなかった。この曲にはよくわからない力で何度となく救われてきた気がする。

 

作った本人でさえ分かっていない。言語に落とせていないのである。

 

 

そして20周年を越えた今。時が経ち、この曲について深く考える材料が増えた今もなお、この曲が提示するのは「分からない」という厳然たる主観的現実であり、人間の想像力の限界である。

 

 

それよりも重要なのは、この曲が有する、ユニゾン自身ですら「よくわからない」と称する力が、ユニゾンを幾度となく救ってきたという事実である。

DUGOUT ACCIDENTはバンド10周年を記念したベストアルバムだが、シングルを一切含まない「ノーシングルベスト」というコンセプトがあった。シングルの代わりに、カップリング曲や(PVのあるリード曲に限らず)アルバム曲から、バンドにとって思い入れのある楽曲が収録されている。そんな本作に、「よくわからない」ながらライブ定番曲として活躍した場違いハミングバードが収録されたのは、この曲の存在の大きさの証左であり、「分からなさ」がこの曲の存在感の核となっていると考えられる。

 

つまり、この曲において本当に考えるべきは「分からなさ」そのものなのである。

 

 

故にこの文章は、場違いハミングバードの歌詞や楽曲全体の解釈を行うことを目的としない。

本稿の真の目的は、場違いハミングバードという曲を足掛かりに、この曲およびUNISON SQUARE GARDENが有する「分からなさ」について再定義するとともに、人が音楽を通して「分からない」ものに触れることの意義について考えることである。

 

 

2.音楽における「分からない」とは何か

私が場違いハミングバードを聴いて「分からない」と直感したのは、先述の通り歌詞によるところが大きい。本稿では解釈等は行わないが、まずはそこから話を進めたい。

例に挙げたのは冒頭Aメロの歌詞だが、この曲は4分48秒ずっとこの調子である。Bメロでは、

 

Hard day’s night 街は今夜も 

Hard day’s night 誰かのせいに

Hard day’s night したがるから わざとらしく首をかしげた

 

 

唐突にビートルズっぽい何かがやってくる。

youtu.be

 

続くサビでは、

 

ああ僕はまたつまらないことで 君を泣かせたりしてるの

 

いきなり自省的になる

 

脈絡もストーリーもあったものではない、とまでは言わないが、一貫したものを見つけ出すのは非常に難しいことが分かると思う。

こと音楽における歌詞は言語情報であるため、このように「言語的一貫性、整合性がない」というのは「分からない」に類する状態と言えそうである。

 

だがこれだけでは足らない。音楽を「分からない」と表現するとき、忘れてはならない観点がある。

「分かる」と「分からない」はグラデーションであり、その狭間には無数の「分かった気になっている」が存在しうるということである。

 

 

UNISON SQUARE GARDENの音楽が有する特異性について、現在に至るまで最も的確に表現したブログが存在する。

2011年に、まさにPopulus Populus発売に合わせてユニゾンの音楽を評したテキストであるが、同時に、音楽を言語の俎上に載せて分析し批評することの難しさについて、重要な指摘がなされている。

 

結局ね、スゴイ言語化しにくいタイプの音楽なんですよ。もっというと純粋に音楽的な音楽なんですよ。要するになにかの文脈に繋がるものではないので書きにくいのです。(中略)ユニゾンのようにただひたすら上手くていいバンドって日本の音楽ジャーナリズムってどう評価していいかわからないんですよ。やっぱりひきこもりのオタク青年が密室で叫んでる、これぞロック、みたいなのが書きやすいのです。社会論にすり替えられるから。音楽の話しなくて済むから。

出典:薔薇とノンフィクションと前段階武装蜂起(中身は音楽の話): kenzee観光第二レジャービル

http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-af9c.html

(注:太字は筆者による)

 

ユニゾンの音楽は「純粋に音楽的な音楽」である故に、何らかの文脈に繋がらず、言語化しにくい。

場違いハミングバードからもこうした性質は読み取れる。歌詞だけに着目しても分かるように、その散逸ぶりから社会論など特定文脈への接続を見出すことは難しい。

一方で、強力な文脈が付与された音楽においては、音楽それ自体を言語化しているつもりが、文脈の話にすり替わることがあるという。

 

ある音楽を詳細に「言語化できる」ことはある程度「分かっている」ことと同じように見える。

しかし上記の指摘から示唆されるのは、我々が言語を通して音楽を理解しようとする際、しばしば音楽それ自体ではなく「文脈」、つまり背景となる情報の方を根拠とせざるを得ないことである。

 

「純粋に音楽的な音楽」であるユニゾンでさえ、文脈が全くないわけではない。Populus Populusのポスター広告や公式の商品紹介には、以下のコピーが銘打たれていた。

 

ロックバンドがPOPであることを模索し続けてきたことによる進化と深化の結晶として、ここに一つの完成型を見る!!

出典:https://www.amazon.co.jp/Populus-UNISON-SQUARE-GARDEN/dp/B004XX2BMA

 

この一文の中には複数の文脈が存在する。「ロックバンド」「POPであることを模索」「進化と深化」「完成形」と、このバンドが今どの立ち位置にいて何を志向してその結果作品がどうなったか、端的かつ広がりのある言葉で示されている。

私がPopulus Populusで初めて聴いた曲を咀嚼しようとする際、このコピーは消化酵素のような役割を果たしていた。激しい3曲目「プロトラクト・カウントダウン」とピアノが入った温かな5曲目「僕らのその先」が1枚に同居しているのは「ロックバンドがPOPであることを模索」した結果なのか、といった具合に言語化の助けになったのである。場違いハミングバードの鑑賞時にも同様に多少役立ったことは言うまでもない(それでも訳が分からなかったが)。

 

 

さて、これは音楽自体を理解していると言えるのか。

「文脈」すなわち楽曲やアーティストの背景にある知識を得たことで、全くの未知だった楽曲の中に既知の領域が生まれた。つまり音楽に対し100%未知ではなくなった、ということは言えそうである。

だがこの時点では「この曲がこうなのはロックバンドがPOPであろうとした結果だから」といった理解にとどまっている。決して間違いではないのだが、楽曲と文脈の接続がいささか直接的である。広がりのある言葉として示されているために一見ちゃんとした理解に見えてしまうが、何が「ロックバンド」でどうすれば「POP」なのか明確に規定できない限り、ただコピーを復唱しているのとそう変わりない。まさに「分かった気になっている」ような状態である。

故に、音楽自体の理解ではなく文脈の理解に過ぎないという可能性を捨てることはできない。

 

それでも、文脈のように手掛かりとなる情報が一切なければ、未知の音楽は未知のままである。

その音楽に対して何も知らない状態の人がより深い理解に至るためには、どうしても音楽の外にある情報が必要になってしまう。

Populus Populusを手に取った当時の私のように、新しい音楽を初めて聴いた人にとってはなおさらである。私のPopulus Populus収録曲への認識は、あらかじめ聴いたオリオンをなぞる・カウンターアイデンティティへの肯定的な印象の上に成り立っており、もし私がユニゾンのことを何も知らずいきなりアルバム曲を聴かされていたら同じ印象を抱いたとは言い切れない。今日まで聴き続けることもなく、さらに理解しようもとせず終わっていた可能性もある。

 

 

このように、「音楽自体の理解」「文脈の理解」の2つを厳密に区分することは極めて難しい。

言語で音楽を理解しようとするときは、音楽自体を「分かっている」つもりが「分かった気になっている」だけ、という状態に陥る恐れを常に孕んでいると言えるだろう。

これは音楽における「言語化」の限界でもある。

 

以上を踏まえると、音楽における言語的な「分からない」とは、「分かった気になっている」にも至れない状態、つまり音楽自体の情報も文脈としての情報も得られず、音楽そのものと手持ちの知識やイメージが結びつかない状態ということになる。

そして場違いハミングバードは、聴いた者にこの状態を体験させるような楽曲であると私は考えている。

この鳥は花の蜜の代わりに、私たちに「分からない」を運ぶのである。

 

 

では場違いハミングバード特有の「分からない」とは何か。

その答えは言語では捉えられない領域の中にあると思われる。だが、「何故言語では捉えられない領域が生じるか」ということについては説明する手段があり、そこから場違いハミングバードのありように近づくことはできる。

ここにおいて、「分からない」を掘り下げる上で重要になるのは「主観」である。

 

 

3.場違いハミングバードを「分からない」と感じるのは何故か

音楽を、音楽外の情報に照らして理解しようとするとき、それは前者への理解か後者か、区分は非常に難しい。よって言語化によって音楽を理解することには限界がある、という話をした。

ここにはもう一つ重要な点がある。音楽を聴く人によって、参照される音楽外の情報は異なってくるということである。客観的情報から音楽を理解しようとしても、情報の取捨選択はその人の「主観」に依存するのである。

 

 

昨今、音楽に対して歌詞やテーマの意味を「解釈」し、作者の意図を「考察」するという大きな潮流があるように思う。滅茶苦茶楽しいので私自身もユニゾンの歌詞などでよくやっているが、そのたびに「作者は~を伝えたかったのではないか」と言うことの難しさ、恐ろしさを実感している。

ある歌詞についてフィーチャーすることはしばしば別の歌詞から得られる洞察を覆い隠してしまう。説の根拠であるフレーズや、引用するインタビュー記事の選び方からは、恣意性――つまり自分自身の思い付きや主観的判断をどうしても拭い去ることができない。故に「これを『作者の意図』という答えとしていいのか」という迷いは常につきまとう。

 

 

こうした「主観」をめぐる問題について、非常にうまく説明した理論が存在する。場違いハミングバードの「分からなさ」を掘り下げることにもつながるため、ここで紹介したい。

 

動物行動学において多大な影響を与えたドイツの生物学者・哲学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルにより提唱された、「環世界」(Umwelt)である。

 

ja.wikipedia.org

 

「環世界」とは

 

書籍にこの概念が書かれたのは1934年。原本は2005年に「生物から見た世界」として日本語訳され、その際「環世界」という訳が与えられている(日本語訳は1970年の新版がベース)。

が、かなり難しい内容のため、ここでは日本における動物行動学のパイオニアにして「生物から見た世界」の訳者、日髙敏隆による解説から引用したい。

 

 

日髙はイモムシを例にとっている。イモムシは自分が乗っている葉=食べ物を重要なものとして認識しているが、それ以外の食べられない植物はイモムシにとって意味がない。同様に、ハチなどイモムシの敵はイモムシにとって重要であり、敵の翅の動きや影を命にかかわるサインと認識する。

その上で次のように述べている。

 

 そういう意味のある存在を彼らは認識できるようになっている。

 彼らの世界はほとんどこれらのものから成り立っている。たとえば、美しい花が咲いていようと、それは彼らにとっては意味がない。食物としても敵としても意味のないそのようなものは、彼らの世界の中に存在しないのである。彼らにとって大切なのは、客観的な環境といわれているようなものではなくて、彼らという主体、この場合にはイモムシが、意味を与え、構築している世界なのである。

 それが大事なのだと、ユクスキュルはいう。ユクスキュルはこの世界のことを「環世界」、ウムヴェルト(Umwelt)と呼んだ。ウムは周りの、ヴェルトは世界である。つまり、彼らの周りの世界、ただ取り囲んでいるというのではなくて、彼ら主体が意味を与えて作りあげた世界なのであるということを、ユクスキュルは主張した。

出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P39

(注:太字は筆者による) 

 

動物が意味あるものとして認識しているものは限られている。故に動物は自ら周囲にあるものに意味を与え、主体的に自分の世界を構築していると捉える。というのが「環世界」という理論だという。

 

またさらにそこから一歩踏み込んで、先述の引用は次のように続く。

 

 したがって、客観的環境というようなものは、存在しないことになる。それぞれの動物が、主体として、周りの事物に意味を与え、それによって自分たちの環世界を構築しているのである。そして、彼らにとって存在するのは、彼らのこの環世界であり、彼らにとって意味のあるのはその世界なのであるから、一般的な、客観的環境というものは存在しない。つまり、いわゆる環境というものは、主体の動物が違えばみな違った世界になるのだというのである。

出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P39-40

(注:太字は筆者による) 

 

普段人間が使う「客観的」という概念を揺るがすようなことが示されている。自分の世界は主観により意味づけられたものだけで構築されているので、環境=世界において「客観的」はありえないのだと指摘しているのだ。

引用部では「主体」とされているが、つまりその動物の「主観」を重視した考え方である。科学=「客観的」という一般的イメージとは一線を画しているが、動物行動学では動物が「何のために」「どのような仕組みで」行動しているのか理解するために、動物が何を認識し世界をどう構築していくかを考えねばならず、こうした「主体」を重視する考え方が必要だったという。

 

先に音楽を「解釈」「考察」することについて述べたが、この考え方に照らすと、私たちが音楽に向き合う上でも「主観」からはどうしても逃れられないことが分かる。我々が音楽を聴くという営為は、リスナー個人の主観により構築された「リスナー個人の世界」が「その音楽の世界」に触れることであり、「解釈」なり「考察」なりで音楽を掘り下げるとき個人の主観的認識を基にするしかないのは当然と言える。

 

 

そしてこうした「環世界」の概念を基にすると、何故「分からない」が生まれるのか一つの考えに至ることができる。

それは、異なる動物間に「世界」に対する認識の差異があるためである。

意味がないものはその動物の世界には存在しえない。また、動物によって意味のあるものは異なるため、動物が違えば世界も異なる。

自分から相手の世界を見たとき、相手の世界では意味のあるものだが自分にとっては意味のないものであるため、世界同士が結びつかず、認識できない領域が発生する。この領域は言語で捉えることもままならない故に、「分からない」の原因ということになる。

 

以上を場違いハミングバードにも当てはめ、「分からなさ」を掘り下げていきたい。

 

 

「環世界」から見た場違いハミングバードの「分からなさ」

場違いハミングバードを聴くならば、「リスナー個人の世界」が「場違いハミングバードの世界」に触れることになる。これら二つの世界の間にも、世界の違いによって認識できない領域は発生し、「分からない」も生まれる。

そして場違いハミングバードにおける根本的な「分からない」原因は、リスナーとユニゾンの「視点の違い」である。

 

音楽の提示する世界は、作り手の世界の影響下にある。音楽それ自体と、作り手の情報を含む「文脈」を完全に分けて評価することは、先述の通り非常に難しい。

場違いハミングバードも例外ではなくユニゾンの世界から派生している。「場違いハミングバードの世界」とは、作詞作曲者である田淵智也をはじめ、Vo./Gt.斎藤宏介、Dr.鈴木貴雄、3人の持つ世界の構成要素から抽出され、楽曲という形になった世界である。

我々は場違いハミングバードを聴くことを通し、ユニゾン3人の世界を垣間見ているとも言える。だが我々はユニゾンではなく、我々とユニゾンの「主観」は異なる。なので彼ら3人が認識しているのと全く同じように世界を捉えることは不可能に近く、どうしても認識には差異が生じる

 

ここでイモムシ以外にもう一つ、人間と他の動物の認識を比較した実例を挙げたい。奇しくも場違いハミングバードのタイトルに冠されている「ハミングバード」=ハチドリである。

 

2020年の以下の記事ではハチドリに関する研究が紹介されている。

www.esquire.com

人間の眼には錐体細胞と呼ばれる明るい場所で色を認識する細胞があり、人間のそれは3種類あるが鳥類や爬虫類には「紫外線を知覚できる4つ目の錐体細胞」が存在すると考えられている。

詳細は割愛するが、これにより鳥類は人間の見るいわゆる「三原色」に加えて、人間には見えない紫外線も見ることができ、人間よりも可視色の幅がはるかに広いと考えられるのだという。

そして検証のためにハチドリに白羽の矢が立った。約3年間にも及ぶ観察研究の結果、ハチドリは、「人間の眼にも見える有色光」「人間の眼にも見える有色光+紫外線」それぞれの光で照らされた2種類の給餌器を色相の違いで見分けていることが分かり、ハチドリには人間の眼には知覚できない色相を見分けられることが示されたのである。

だがそれでもハチドリの眼にこの世界がどう映っているか、人間には分からない。記事を読む限り錐体細胞の差というどうにもならない要因のためと思われるが、実際のところは今後の研究を待つしかないようである。いずれにせよ、人間と他の生物とでは認識できる領域が異なることを示す格好の事例と言えるだろう。

 

 

場違いハミングバードを聴くことによって、上記の洞察と同様の驚きを見出すことができる。

ハチドリに紫外線が知覚できるように、ユニゾンには我々と異なる領域が見えているのかもしれない、と思わされるのである。例え手術中にビートルズっぽい何かが乱入してきて街の有様に首を傾げたと思ったらつまらないことで君を泣かせたことを自省するという一般常識では明らかに何もかもがおかしいシチュエーションでも、ユニゾンの世界では本当にそれが矛盾なく成立しているのではないかと思わされるのである。

 

 

また、場違いハミングバードを「分からない」と感じるポイントは人それぞれだろうが、私にとってのそれ、つまり歌詞に注目すると、リスナーとユニゾンの「視点の違い」はより明確になる。

場違いハミングバードには先述した歌詞の他、もう一つ、非常に象徴的で重要なワンフレーズがある。

 

 

ああ迷子のため息.com

 

 

こんな言葉はこの曲の中にしか存在しない。と言い切ってしまっていいだろう。

 

当然意味は分からないし解釈するつもりもないが、それはこのフレーズが全く新しい言葉の組み合わせ方をしており、聴いた者の持つ知識や常識に当てはめることができないからである。

「迷子」「ため息」「.com」の3つの語を歌詞として選び出し、全部合体して全く新しい言葉を生み出したことからは、ユニゾン(少なくとも作詞・田淵智也)の独自の視点、つまり「主観」、ひいては世界に対する認識が見て取れる。

我々とユニゾンは同じ人間であるが、それでもこれほど視点が異なっていることを浮き彫りにするような歌詞である。

 

 

以上をまとめると、ユニゾンが意図していたかは不明だが、場違いハミングバードにはユニゾンと聞き手の主観的認識の差異を利用し、認識できないはずの領域にある「分からなさ」を顕在化させる性質がある。先述してきた歌詞の「言語的一貫性、整合性のなさ」などはその結果表れているものと思われる。

結局のところ、この曲が運んでくるのは「分からない」という厳然たる主観的現実なのである。

 

 

 

だがそんな、作った本人たちでさえ「分からない」楽曲が、幾度となく演奏され、ライブの定番曲となり、バンドを救い、バンド結成10周年時点のハイライトとしてベストアルバムにも入るほど愛されている。

かつてほど勢いはないものの、今もUNISON SQUARE GARDENのファンの間では、場違いハミングバードを始め、容易に理解し得ない難解な歌詞の熱を帯びた解釈が飛び交っている。

これらの現象からは「分からない」が必ずしも否定的な概念でないことが示唆される。そしてこれはユニゾンの言う、場違いハミングバードが有するような「よくわからない力」の賜物である。

では「よくわからない力」とは何なのか。そもそも何故これほど「分からない」楽曲に皆が魅了され、触れようとするのか。

 

 

その答えは非常にシンプルだと思う。楽曲を通して他者の世界を知ることに喜びを感じているからである。

「あなたには、世界はどう見えているんだろう」*4 *5という疑問に答えを出したいからである。

そして「よくわからない力」とは、聴いた者に「知りたい」と思わせ、行動させる力だと思う。

 

youtu.be

 

 

4.「あなたには、世界はどう見えているんだろう」

 

先に引用した日髙敏隆は、自身のエッセイの中で、小学校の頃に動物行動学を志した原点を以下のように語っている。

 

 あるとき、枝をいっしょうけんめいはっている芋虫に思わず話しかけたことがある。

「おまえどこに行くの?何を探しているの?」

 芋虫は答えなかったけど、ぼくにとって、それは大切な原点だったかもしれない。

 必死ではっている。はうのは筋肉を使っているからだ。そういう話では何もわからない。

 少なくともいきものには、なぜその行動をするのか、目的があるはずだ。それを問わなければ何も始まらないではないか。

出典:『世界を、こんなふうに見てごらん』日髙敏隆 2013 集英社 P13

(注:太字は筆者による) 

 

 

私たちがUNISON SQUARE GARDENの音楽を聴くとき、これと全く同じ衝動に動かされている気がしてならない。

対象が芋虫か音楽かという違いがあるだけで、問うているのは同じような疑問である。どこへ行くのか。何を探しているのか。

それを知るべく、動物行動学でひたすら虫や動物を観察するように、我々は幾度も再生ボタンを押す。ときにはそれに飽き足らず歌詞をこねくり回し、インタビュー記事、ブログ、SNSの発言まで持ち出そうとする。

やがて音楽への疑問は、音楽を通して垣間見える作り手たち、ロックバンドへの疑問へすり替わっていく。「その音楽の世界」と「作り手たちの世界」の境界は融解する。それを突き詰めていくと作り手――「あなた」の見ている世界はどうなっているか、という疑問に至るのだ。

 

日髙は「環世界」の概念、動物にとっての環境を「あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なもの」とする考えを拡張し、「イリュージョン」という概念を提唱している。

 

 それはある種の錯覚であるともいえる。けれどそれは必ずしもつねに「思いちがい」であるわけではないし、客観的事実と一致しない、誤った知覚であるとは限らない。

 きわめて俗っぽくいえば、それはある意味での色眼鏡かもしれない。しかし、たとえば動物と人間における色眼鏡と呼んだりすると、かなり限定された印象を与えることになろう。

 そのようなことをいろいろと考えた末、ぼくはそれをイリュージョン(illusion)と呼ぶことにした。

出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P16-17

(注:太字は筆者による) 

 

人間も人間以外の動物もイリュージョンなしに世界を認知し構築し得ないという。加えて、人間以外のイリュージョンは知覚の枠によって限定されるようだが、人間の場合はその枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できるという。

先に挙げた例で言えば、ハチドリは紫外線を見ることができるが、人間には見えない。だが人間は科学により紫外線が存在することを知っているし、その上で対策として日焼け止めを作り出し、UVカットできるよう服飾を進化させてもいる。実態として知覚できないものを「ある」ものとして扱う様はまさに「イリュージョン」という言葉が当てはまる。

そして人間がイリュージョンを構築する動機について、日髙は次のように総括している。

 

それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、それによって新しい世界が開けたように思う。それは新鮮な喜びなのである。人間はこういうことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだ。それに経済的価値があろうとなかろうと、人間が心身ともに元気で生きていくためには、こういう喜びが不可欠なのである。

出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P195

(注:太字は筆者による) 

 

 

この結論は、音楽に対しあれこれ探究する人々の在り方と合致している。つまり私達は音楽体験を通し、新しい世界が開ける喜びを感じているということになる。

音楽体験を「環世界」の概念に照らせば、「リスナー個人の世界」が「その音楽の世界」に触れることであり、「その音楽の世界」を通して「作り手の世界」を垣間見るという仕組みが浮き上がる。

音楽もイリュージョンの上に構築された世界であり、そこから見える作り手――他者もまたイリュージョンである。

だが他者の世界は自分にとって間違いなく新しい世界だ。例えイリュージョンであっても。

場違いハミングバードは、視点の違い、世界の違いから生じる「分からなさ」を提示することで、聴いた人の「知りたい」衝動を喚起し、新しい世界へ触れさせる音楽なのである。

 

音楽を聴く動機や語る対象が作り手個人に集中していくことには賛否もある。先述の通り、それは音楽自体について語っていると言えるのかという問題もある。

だが場違いハミングバードに関しては、ライブで演奏されるたび磨きのかかる定番曲となり、ユニゾン自身をも「よくわからない力」で幾度となく救った。楽曲を通し、「あなた」の、ユニゾンの世界を知りたいと思わせる魅力あってのものであろう。

場違いハミングバードに触れた人々の数多の「主観」が、この曲をユニゾンごと新たな場所へ押し上げたのである。

それはきっと、良いことだったのではないか。

 

そして、ユニゾンの言う「よくわからない力」とは、「あなた」の見ている世界への疑問から検証へ向かわせる力、聴いた人に音楽に対する深い掘り下げを誘発する力ではないかと考えられる。

誰しも、疑問を感じたとしても、熱量が伴わなかったため検証せず終わったことがあるはずだ。音楽に置き換えれば、そもそも純粋にいいと思える曲でなければわざわざ「解釈」だとか「考察」へ向かうような熱量は発生しえないのである。

我々とユニゾンの世界の狭間の、「言語では捉えられない領域」。そこから私たちに「いい」と思わせて行動したくなるような熱量を生む力。それが「よくわからない力」と言えるのではないか。

 

当然この熱量は極めて主観的なものである。ここまで引き合いに出してきた「環世界」のようにエビデンスを提示して理論で説明を試みるのは野暮であろう。

ただ間違いなく言語では説明しきれない領域である。音楽で言えば「歌詞」というより「音」の領域に近いだろう。

いつか、ここを的確に表現するための言葉が、ユニゾンの楽曲に対する「解釈」「考察」の中から発明されることを楽しみにしたい。

いやもしかしたら既にあるのかもしれない。何故ならこの熱量に覚えがある方はたくさんいるはずだからである。そんな言葉をもし知っている方がいたら是非教えていただけるととても嬉しい。

 

 

 

何度も言うようだが、私には場違いハミングバードの歌詞の意味どころか、その全体像はやはり「分からない」。だが一部のフレーズからは、「あなた」の世界を知ろうとする我々の在り方との相似が見てとれる。

例えばこのフレーズは、ひょっとしたら、私の世界と場違いハミングバードの世界が奇跡的に重なり合った領域なのかもしれない。

この鳥が迷わず飛んでいくのに感化され、私も、「あなた」の見ている世界を知りたいと願う。

 

 

場違いなハミングバードでも 帰れるおうちがあるから

迷わず行くよ 君の所まで

 

 

私たちが「分からない」に触れるとき。他者の構築する世界に手を伸ばすとき。

この曲は「よくわからない力」をもって、世界を拡張する後押しをするだろう。

試みの中で傷つくことがあっても、”場違いなハミングバードにも帰れるおうちがあるから”安心して手を伸ばせるはずだ。

我々にもまた、”帰れるおうち”はある。あるいはこの曲自体がそうかもしれない。

 

 

 

今日のところはこれくらい 外しちゃおうかな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と語ってはきたが。

 

 

ここまでの内容全て、結局は「私から見た」場違いハミングバードであり、主観的産物に過ぎない。

私の場違いハミングバードとあなたの場違いハミングバードは、きっと違う。

だから、分かった気にならず、これまでのことは一旦全て忘れ、何も考えずただ再生ボタンを押してみていただきたい。

UNISON SQUARE GARDENというロックバンドの楽曲、いや、あらゆる文脈を排せば、ただの4分48秒の音声情報が流れるだけである。

 

 

そこから、あなたの世界に棲む、あなただけの場違いハミングバードを見つけ出せることを願っている。

 

あなただけのイリュージョンをもって。

 

 

 

 

🦢  🦢  🦢

☕  ☕  ☕

 

 

 

 

 

 

さて。

 

 

btaim-polerground.hatenablog.com

 

 

そう言ってから1年以上が経過したが、お聴きいただけただろうか。

最悪聴いていなくてもいい。そう簡単に音楽は逃げない。

 

あなたの世界に棲む、あなただけの鳥は見つかっただろうか。

 

 

補遺. 2026年現在とこれからの「場違いハミングバード」とは何か

本稿の加筆修正前、いわばオリジナルにあたるのが1年前に書いた上記の記事である。

この文章は場違いハミングバードという曲を誰かに聴いてもらうことを主な目的としているが、万が一文章自体にも興味を持っていただけたのであれば、修正前後でところどころ微妙に変えているので、見比べてみると面白いかもしれない。

 

だが主題は何一つ変わっていない。それはひとえに、場違いハミングバードの持つ「よくわからない力」の強度によるものだと思う。

今回加筆修正するにあたり、D.A mixを再度聴き直したところ、やはりこの曲の奇天烈さ、思わず笑ってしまう馬鹿馬鹿しさ、そしてカッコよさは変わらず、結果として1年以上前、いやPopulus Populusを初めて聴いたあのとき同様の、新鮮な「楽しさ」を浴びせられた。

場違いハミングバードは今なお「よく分からない」まま、新たな世界へ誘うようないい曲として在り続けている。

 

変わったのはユニゾンの方であった。それも決定的に。

unison-s-g.com

※2026/04/27参照

 

鈴木貴雄の脱退と活動休止。

場違いハミングバードを鳥に例えるなら(文字だけ見ると鳥を鳥に例えるという奇妙なことになってしまっているが)、その飼い主の一人が世界から去ってしまった。世界そのものがなくなったわけではないが、世界が更新されていく様、そこで鳥が勢い良く羽ばたいていく様は見られなくなってしまった。今はそんな状況といえよう。

なにしろ場違いハミングバードは鈴木貴雄によるあの雄叫びのような4カウントから始まる曲である。少なくとも現時点では、その始まり方でない場違いハミングバードを想像してもしっくりこない、というのが正直なところだ。

 

 

それでも、この曲の在り方と楽しさは、これからも変わらないだろう。

これはただの慰めではなく根拠がある。幸いにも、ここまで長々書いたことによって見つけることができた。

 

ユニゾンの音楽は「純粋に音楽的な音楽」である故に、何らかの文脈に繋がらないという話をした。その難しさがあってもなお、多くの人がユニゾンの音楽を(主に歌詞を中心に)様々な文脈に接続して読み解こうとしているほど魅力的であると。

ユニゾンを読み解く際は、10周年/15周年/20周年といったバンドの歴史や、作詞作曲者である田淵智也をはじめとするメンバーの心情といった、ユニゾン自身の有する文脈に接続を試みる人が多い。「この曲の当時バンドはいわゆる『闇期』だった」「来たるべき20周年の節目を見越してこのフレーズは作られた」等々。

これは音楽への理解を深め、より好きになれる方法ではあるが、一方で文脈にとらわれることへの反動もある。今回の活動休止のようなことが起きた際、バンドの文脈を色濃く反映した、バンドのステートメントが描かれた曲を聴きにくくなるということだ。ユニゾンの場合、楽曲だけでなくその活動方針も好きというファンが多いため、なおさらダメージが大きい。

 

場違いハミングバードはそういうタイプの曲ではない、というのも書いてきたとおりである。

作った本人さえ「よく分からない」と称する曲に、聴く側が何らかの文脈に沿った意味を求めるのは相当難しいだろう。

 

逆に言えばこの曲は、文脈から離れているからこそ、どんな文脈でも「楽しさ」を損なわず聴くことができる。

ユニゾンの休止が発表された後にこの曲を聴いてもなお、強烈なバンドサウンドと愉快なフレーズの数々を浴びせられ、思わず笑ってしまう自分がいた。

この先長い時が経っても、"迷子のため息.com"というフレーズは、可笑しさを、「楽しさ」を呼び起こしてくれるだろう。それはその言葉や音楽単体に独立した強度があるからに他ならない。

 

 

もう一つ、場違いハミングバードの「分からなさ」に迫るべく、「イリュージョン」という概念の話をした。あらゆる動物はイリュージョンなしには世界を知覚できない。音楽もイリュージョンの上に成り立つ世界であり、そこから見える他者もまたイリュージョンである。他者の世界と自分の世界の差異が「分からなさ」の原因であり、場違いハミングバードが分からなくても魅力的なのは、人がイリュージョンを構築する動機───他者の世界に触れる楽しさを喚起する曲であるからだと。

イリュージョンの概念は動物行動学という学問分野からスタートしているが、その気になれば歴史学、文化人類学、哲学にまで波及して色々なことの説明ができてしまう。

提唱者の日髙敏隆は著書の中で、地球平面説をイリュージョンと捉え、地球平面説→地球球体説への移行を引き合いに、イリュージョンは変化するということを示している *6

さらに日髙はイリュージョンの「変化」を拡張し、自身のエッセイの中で、人間の在り方や生き方についてまで次のように提案している。

 

 真理があると思っているよりは、みなイリュージョンなのだと思い、そのつもりで世界を眺めてごらんなさい。

 世界とは、案外、どうにでもなるものだ。人間には論理を組み立てる能力がかなりあるから、筋が通ると、これは真理だと、思えば思えてしまう。

 人間といういきものは、そういうあやしげなものだと考え、それですませてしまうこと。それがぼくのいういいかげんさだ。キリキリつきつめていくのはどこかおかしい。

出典:『世界を、こんなふうに見てごらん』日髙敏隆 2013 集英社 P33

(注:太字は筆者による)

 

イリュージョンは変化する。それ故に人間にとって不変の真理はなく、変化するものとして世界を捉えること。

場違いハミングバードの「分からなさ」には、こうした「変化」故の「いいかげんさ」も内包されている

特に歌詞において顕著だが、あそこから絶対的な真理めいたものを見出すことが難しいのはお分かりいただけるだろう。意味的整合性や一貫性はなく、聴いたシチュエーションによっても捉え方が変わりうるフレーズだらけである。

 

裏を返せば、真理が、世界が、イリュージョンが「変化する」ということは、恐らく「変化しない」。

場違いハミングバードは真理や世界それ自体ではなく、無数の解釈の余地がありそうで捉えることが難しいものを歌詞や曲全体で表現し、我々に曲の捉え方の移り変わりを体感させることで「変化」という確固たる理を示している(その理さえもいずれは変化してしまうのかもしれないが)。

 

こうした点から場違いハミングバードは、その在り方と楽しさを保ち続けるだけの性質と強度があり、今なお色褪せない楽曲である。

 

 

そして、場違いハミングバードは、まさに「今」聴くことにも大きな意味がある。

先に述べた「いいかげんさ」は、捉えどころのないものを「そういうものとして扱う」姿勢、突き詰めるのではなく一定のラインで考えを打ち止める姿勢につながっている。

場違いハミングバードは今の私たちにそれを教えてくれる曲だと私は考えている。

 

他者と自分の世界の間にある差異を顕在化させるのが場違いハミングバードと述べたが、他者もイリュージョンである以上絶えず変化する。

常に動き続けてきたUNISON SQUARE GARDENでさえ活動を止めたように。

そんな変化の理由を突き詰めて解明するのではなく、「そういうもの」としてあえて考えを留保するというやり方を、場違いハミングバードは思い出させてくれるのではないか。

この曲の、あの訳の分からなさに触れた結果、突き詰めて筋の通った「解釈」「考察」をするのがアホらしくなって止めた方もいるだろう。

そしてそうやってこの曲の訳の分からなさに振り回されるのが楽しいと思った方は、もっとたくさんいるだろう。それと同じである。

 

ユニゾンの不在を受け容れろ、と言いたいわけではない。

ただ、理解の及ばない、受け容れ難い事象に出会ったとき、「そういうもの」として捉え留保するしなやかさは、結果としてこれからを生きるための力になるのではないか、と考えている。

まして、笑ってしまうほどカッコいいバンドサウンドをもって、溢れんばかりの「楽しさ」まで伴って、そんな在り方を示してくれる曲がこれからも傍らにあるというのは、どれほど心強いだろうか。

 

日髙は、「イリュージョン」の概念を有する人間がどう生きていくかという提案を次のように総括しているが、まさに場違いハミングバードのような曲が傍らにあれば、こういう在り方に近づけるのではないかと思うのだ。

 

 かたわらにいつも、これはイリュージョンだという悟性を持つこと。

 ゆらぎながら、引き裂かれながら、おおいにイリュージョンの世界を楽しめばいいと思うけれど、結局はさじかげんなのだと思う。

出典:『世界を、こんなふうに見てごらん』日髙敏隆 2013 集英社 P35

(注:太字は筆者による)

 

 

とはいえ。

「イリュージョン」が主観からは逃れられない以上、ここまで述べてきた考えも決して絶対のものではない。

確からしいのは、「場違いハミングバード」という楽曲があることと、それを聴くかもしれない人がいること。そしてその結果形成される世界は、イリュージョンは、人によって異なることである。

 

故に、場違いハミングバードは、今もそれぞれの世界に棲んでいるはずなのだ。

それをどう捉えるかも、変わらず私たち自身にゆだねられている。

 

 

 

かくして、少なくとも私の周囲には、まだあの鳥たちの痕跡がある。

私だけの鳥を探す道は、今も変わらず続いている。

 

他者は絶えず変化する以上、強制はできない。

だが、できれば、あなたにとってもそうであってほしいと願う。

 

 

 

例え箱庭から飛び去った後だとしても、私たちが鳥を見たことに、嘘はないのだから。

 

 

 

Next▶▶箱庭ロック・ショー(D.A style)

note.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

企画「DUGOUT ARCHIVIST」全記事一覧はこちら。

summerday.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:出典:https://www.uta-net.com/song/105346/

*2:出典:https://www.uta-net.com/song/112591/

*3:出典:https://www.uta-net.com/song/115475/

*4:出典:

flipflappers.com

*5:2028年3月31日まで、TVアニメ「フリップフラッパーズ」がYouTubeにて期間限定で全話配信中です。「環世界」に興味を持った方は是非ご覧ください。

youtu.be

*6:出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P150-151

イルーシヴに存在 / V/R Converters「ニューラルへ縹緲」ディスクレビュー

※2025/12/22追記:一部書式と誤字、事実と異なっていた記述の修正、リンク、画像の追加を行いました。

 

発端:はじめに

発端は2023年10月、早朝の駅のホームだった。

 

電車到着まで手持ち無沙汰で、Spotifyのマイライブラリに放り込んでいたアルバムに何気なく手を伸ばし、再生した。

 

youtu.be

 

 

泣いてしまった。

 

あまりにも華やかな音。生まれて初めてヴァイオリンやトランペットから音が出る瞬間を目撃した子供の喜びのような音が鳴っており、それだけが連なって1曲ができていた。極めて純度の高い「楽しさ」を食らわされる音楽体験だった。

「泣いた」と言ったが実際は「涙を流しながら満面の笑みを浮かべていた」ような状態だったと思う。公共の場だったのでマスクを着用していなければ危なかった。

 

これが、V/R Convertersという音楽集団を初めて知った瞬間である。

 

このとき感じた魅力を説明しようにも、どうしても「とにかくめちゃくちゃ楽しい」という極めて主観的な表現に終始してしまい、理屈も減ったくれもない。

ただ「楽しい」と感じた明確な要因の一つは、冒頭のナレーションから分かる「架空の音楽番組のオープニング」というコンセプトにあったと思う。それもミュージックステーションCDTVではなく、NHK歌謡コンサートのそれを彷彿とさせるものだ。

私が子供の頃は番組の後期〜末期あたりで(2016/3/15を最後に放送終了、現在は後継番組として「うたコン」が放送されている)*1、祖父母にTVを見せられていたのだが、その頃の記憶さながらだった。ステージの後ろに常にオーケストラとバンドが控えており、様々な出演者による歌が一貫して生演奏で披露されるという構図が目に浮かんだのである。

そしてこのアルバムはすべて「架空の音楽番組」という枠組みでできていた。

それ故に成り立つ、年端も行かない子供にも一発で分かるメロディ自体の楽しさ。クラシカル(正統派)なポップの中に紛れ込む変拍子や奔放極まるアレンジの楽曲。多種多様なボーカリスト陣による歌。それらすべてが結びついた自分の好きな音楽が絶えず流れ続けていた。

極めつけは1曲目同様の全員大合唱で「架空の音楽番組のエンディング」を再現した最終曲である。「明日の君が泣いていても、再生ボタン一つ押せば踊って笑えるように僕らはここで歌い続けている」と総括されるアルバム全体のメッセージに、優しさと希望を与えてもらった。

 

 

「この人たちは音楽を信じている」そう認識した。アルバムを聴き終える頃にはとても晴れやかな気分になったのを覚えている。

そんなアルバムに、私が全く知らなかった凄まじいプレイヤーとボーカリストが数多く集っていたという事実には感極まるものがあった。

気づけば年末までほぼ毎日このアルバムを聴き続けていた。Spotifyの記録(Spotifyまとめ2023、Spotify Wrapped 2023)を信じるのであれば、私がその年に聴いたアーティストランキングの3位にわずかひと月程度でV/R Convertersが食い込むという異常事態になっていた。

年をまたいでもその熱は続き、過去に発表されたアルバム2作にも手を伸ばした結果、Spotify上で2024年に最も聴いた曲が2022年発表の2ndアルバム1曲目になってしまった。

最早疑いようもなく虜になっていた。

 

youtu.be

 

 

2025年4月。V/R ConvertersはTalich Helfen、ゐつぺゑ、綿菓子かんろによる3名体制となり、2年ぶりにアルバムが発表されることになった。

 

10月に先行販売され、本日12月21日配信開始となった4thアルバム「ニューラルへ縹緲」である。

 

 

 

やっぱり泣いてしまった。

 

ただし、その感動は、初めて聴いたときとはほぼ真逆のものだったのだ。

純粋な楽しさは侘しさと途方も無さへ、明確な枠組みは脱構築へ、優しさと希望はそこにあるだけの静けさへ。

より複雑で難解な概念へ変貌していたのである。

 

しかしそれは、聴く人の一切の立ち入りを拒むようなものではない。むしろ必ずヒトの琴線のどれかに強烈に触れる可能性を持った音楽となっている。

では、

 

 

何故これだけのものを作る人たちが、V/R Convertersが、まだ知られていない────

 

 

ふざけてんのかと、おかしいだろと、一周周って怒りにも近い思いで今PCに向かっている。

新譜が出た今は千載一遇のチャンスなのだ。とにかくもっと、一人でも多くの方に聴かれてほしいと願う。

本当は知り合い全員の両耳にイヤホンをねじ込みに行きたいぐらいなのだが、そうもいかないので言葉に頼らざるを得ない。

 

 

そういうわけで、本稿ではV/R Convertersを何としても多くの方に聴いてもらうべく、最新作「ニューラルへ縹緲」のディスクレビューを通して私の感じた魅力を挙げつつ、このアルバムひいてはV/R Convertersが提示する概念の説明を試みたいと思う。

繰り返すが、一人でも多くの方が聴いてくれることを願っている。

 

 

前提:V/R Convertersとは

V/R Convertersのことをまだ知らない方も多いと思うので、前提情報として概要を紹介する。

とはいえ必要最低限の情報は公式HPにあるため、そちらを参照すれば確実である。早くアルバムの話を読みたい方は、以下からディスクレビューまで飛ばしていただいて問題ない。

ディスクレビューはこちら

 

coremusic.jp

 

 

さて、現体制になって間もなく、親切にも公式がショート動画でユニットと各メンバーの自己紹介を出している。まずはそちらから紹介したい。

 

https://youtube.com/shorts/fkpMnZpE628?si=uxdRGS-uNkCLGpgB

 

V/R Converters(ヴイアールコンバーターズ)とは

“ユニット”

“アーティスト”

“インディーズバンド”

“マルチクリエイター”

(翻訳不可)

まあ、なんでもいいです。

 

肩書が多い。それに投げやりである。親切とは?

一応公式HPでは「音楽を軸に活動するユニット」とされているので、その認識で問題ないだろう。

 

coremusic.jp

 

2020年から活動を開始。これまでに3枚のアルバムを出しているが、2023年の3rdアルバム発表をもって一度活動がストップしている。

このときのメンバーは、作曲・演奏を担うTalich Helfenゐつぺゑを中心に、shiro(作詞、VOCALOIDエディター。現在も動画等で協力)、Gakutin(Drums)、Niaひよ子(イラストレーター、アートワーク担当)という大所帯であり、音楽から動画、アートワークまでクリエイティブをトータルで、自分たちで手掛けることを志向していた。ここまでの経歴は以下年表を参照されたい。

 

talichhelfen.wixsite.com

 

 

2025年4月からは3.0として再始動、Talich Helfen、ゐつぺゑ、綿菓子かんろの3名体制に刷新された。

2025年4月24日に現体制第1弾シングル「樹氷」配信開始。以降、大体月に1曲のペースで楽曲を発表しており、すべて今回のアルバム収録曲である。

その合間の7月16日にはCDsへの参画も発表された。「人マニア」「イガク」や学園アイドルマスターへの楽曲提供、2020年東京パラリンピックでも知られる原口沙輔が主宰する音楽集団である。これを機に8月のYouTubeMusicWeekendにもプレイヤーとして参加した。

youtu.be

 

そして、10月の先行販売を経て、本日12月21日、4thアルバム「ニューラルへ縹緲」が正式に配信開始、現在に至る。

続いて現メンバーについて、分かっている範囲で紹介したい。

 

Talich Helfen

https://youtube.com/shorts/5ExaW05qmIc?si=A0AMyDK4gD8N-2lJ

 

発起人でありオリジナルメンバー、作編曲、鍵盤演奏を担う、楽曲制作の中心人物である。

「ターイッヒ・ヘルフェン」と読む。確認できる限り通称は「ヘルフェン」「へるふ」など。

動画では何故か「性格が非常に悪いことで有名」とされている。「自虐とはいえそこまで言わんでも……」と思うが、非常に緻密かつ演奏難度の高いアレンジが施された楽曲を作り続けているほか、「楽曲やティザーに謎解き要素を仕込む」「アルバム構成において時間や楽曲配置、タイトルの文字数など、シンメトリーであることに偏執的なこだわりを持つ」などエキセントリックな面をもっているのは確かである。

また、もともとは楽譜を書いて作曲を行っており、しばしば自身が手掛けた作品の楽譜データを公開している。後述する「クヴェールと貼箱」ではDAWに慣れてきたタイミングで改めて「スコアに立ち返って、オーケストレーションでちゃんとポップスを作ろう」というコンセプトを定めていた。こうした点から、楽譜書きの視点による制作スタイルが緻密さ、華やかさに影響していることが示唆される。

 

youtu.be

 

 

ゐつぺゑ

https://youtube.com/shorts/VQRZqed-KeI?si=5GBcFQF3NhJBV-iA

 

もう一人のオリジナルメンバー、楽器演奏を一手に引き受ける。

「いっぺえ」と読む。本名は相原一平。名前表記から「みつぺる」「ぺる」などと呼ばれることもある。

2025年現在活動休止中の仙台のロックバンド「底なしの青」ではベースを務めているが(V/R Convertersの3rdアルバムではバンドぐるみで客演したり協力していた)、V/R Convertersではギター、ベース、ウクレレ等俗に言う「竿物」はもちろん管楽器までも対応できるまさにマルチプレイヤーである。

Talich Helfenに次いで作曲も行っており、しばしば二人で共作もする。V/R Convertersの音楽は二人の特色が融合・調和しているので違いを挙げるのが難しいのだが、リズムがタイトでおしゃれな曲、ロック色の強い曲はゐつペゑの要素が強い印象である。

 

youtu.be

 

綿菓子かんろ

https://youtube.com/shorts/dKQ4v3UZ6kU?si=cVQWwuF_rpCfiTCs

 

www.youtube.com

 

最新のメンバーであり、ボーカル、作詞担当。通称は「わたかん」。個人のVTuber/VSingerとして活動している。

coremusic.jp

 

この加入によりV/R Convertersは生身の人間×2、ヴァーチャルの住人×1という、まだ前例の少ない構成のユニットとなった。まさにV/R=Virtual/Realを体現している一人である。

個人の活動についてはそれだけで1記事が書けるほど膨大なため、V/R Converters関係に絞って記載すると、2023年10月に活動開始(初投稿)。現在まで全ての「歌ってみた」(カバー動画)音源はTalich Helfenが編曲・アレンジを手掛けている。

 

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翌2024年には全作編曲プロデュースTalich Helfenによる、完全オリジナルのフルアルバムを2作発表している。

 

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1stアルバム「リサージュの風景」。声色を重視すべく「全曲サイン波と歌のみ」というコンセプトで作られた作品である。最初の作品でこれを持ってくるのはあまりにチャレンジングすぎると今でも思うが、癖がなく綺麗に通る歌声がダイレクトに伝わる作品となっている。

 

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2ndアルバム「クヴェールと貼箱」。先述の通り「スタンダードなポップス」がコンセプトだが、リサージュの反動からか生の楽器とプレイヤーを大量に導入し、想像の100倍色鮮やかな作品になっている。「ポップス」というがその実ジャズボサノバレゲエプログレサンバカントリーと全てを横断し包括している。とにかくいろいろな音が鳴って楽しく、深みもあって何回でも聴ける作品である。

 

 

実は「綿菓子かんろ」は活動開始前、V/R Converters3rdアルバムに別名義で作詞・歌唱で参加していたことがつい最近明らかになった。

 

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3rdを散々聴いていた身としては、当時の(今もだが)V/R Convertersの匿名性高い雰囲気に影響されてボーカルの声から気付けなかったのが少し悔しかったが、気付いたうえで改めて聴くと納得できた。Talich Helfenの活動においてV/R Converters→綿菓子かんろへの移行はごく自然なものだったといえるだろう。

 

そしてその後2024年11月のライブイベント「FRICTION」にV/R Convertersの出演が(休止状態だったのに)決定し、そこに綿菓子かんろがゲストボーカルとして出演することになったのを機に、現体制でのV/R Converters再始動に繋がったという。

 

 

なお、V/R Converters加入後も個人としての活動を精力的に行っており、むしろ加入前よりも勢いを増している。2025年10月には3rdアルバム「紙上文学」を発表、先行販売。Talich Helfen、ゐつぺゑが全編曲を行っているものの、作詞に加えなんと作曲も全て自身で手掛けた作品である。

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解題:「ニューラルへ縹緲」ディスクレビュー

V/R Convertersの作風と今作「ニューラルへ縹緲」について

私が思うV/R Convertersの音楽の好きなところは、冒頭で示したような、純粋な楽しさ、華やかさといった点に集約されるのだが、それらを実現するのは明確で強固な「コンセプト」だと考えている。

 

私が知るきっかけになった3rdアルバム「The Relaying Points」は、先述の通り「架空の音楽番組」という枠組みのおかげで、ジャンルを超えた多様すぎる楽曲が集まり絶えず流れ続ける、という構成に必然性が生まれたのである。それ故一切飽きず、高い没入感のまま最後まで楽しく聴くことができたのだ。

過去のアルバムも同様で、1stアルバム「The Starting Points」はラジオの周波数を切り替えるかのような構成となっており(正確には先行して作られていたMV群に登場する「キャラクターの生活の一部を切り取ったアルバム」ということらしい*2 、2ndアルバム「The Executing Points」では「テレビゲーム」が選ばれ、カセットを抜き差しする音、ステージセレクトの音声が随所に差し込まれている。

 

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今作「ニューラルへ縹緲」の重要な点は、V/R Convertersの過去3作というより、新メンバーであるVTuber/VSingerの綿菓子かんろ個人名義アルバム「リサージュの風景」「クヴェールと貼箱」の続編に位置付けられていることである。アルバム名も「The~Points」ではなく「カタカナ+助詞+二字熟語」となっている。

そのため今作は、V/R Converters名義の過去作とは性質が異なっている。

なので今回は実のところ、最初に好きになった時期と同じように楽しめるだろうかという、一抹の不安があった。

 

 

何故今作が異なる位置付けになっているか。

V/R Convertersは当初、1st~3rdアルバムに次ぐ完結編としての4thアルバムを構想していたが、もろもろの事情から頓挫したという。*3

 

その後Talich Helfenは綿菓子かんろをプロデュースしアルバムを2作発表するが、彼は2023年6月時点でソロアルバムを構想しており、それをたまたま活動を始めようとしていた綿菓子かんろへ持ち掛けたことが制作のきっかけだったそうである。*4

 

このことから、綿菓子かんろのデビュー作としてだけではなく、V/R Convertersから続く一連の活動の仕切り直しという性質もあったことが示唆される。

「ニューラルへ縹緲」は仕切り直し以降の集大成であり、V/R Convertersの4thでできなかった一区切りにあたる作品と解釈できる。

 

そして、V/R Convertersと綿菓子かんろ個人名義の性質がどう異なるかというと、やはりコンセプトである。

綿菓子かんろの作品も明確なコンセプトのもとに構成されている。「リサージュの風景」は「全曲サイン波と歌のみ」。「クヴェールと貼箱」はその反動のように生のストリングスやパーカッションが彩る「スタンダードなポップス」。

V/R Convertersの過去3作が「ラジオ」「テレビゲーム」「音楽番組」であることと比較すると、こちらのコンセプトは外部メディアではなく、音楽そのものの性質によって決められている。外側の枠組みではなく、音楽それ自体を聴かせる方向に寄っているように思える。

「ニューラルへ縹緲」にもコンセプトがあるなら、そういった方向性になると私は考えた。

 

 

V/R Convertersと綿菓子かんろ個人を追う過程を経て、以上の仮定が頭に入った状態で「ニューラルへ縹緲」を聴けたのはある意味で幸いだと思った。「自分が思ってたのと違う」可能性を念頭に置くことで衝撃を和らげられると考えたからである。

当然、そうならなかったのは冒頭に書いた通りである。

同時に私が食らった衝撃はまさに「自分が思ってたのと違う」もので、なおかつ100%良い意味での衝撃、万感の思いにさせられるものだった。

 

 

では「ニューラルへ縹緲」とはどんな作品で、何が魅力で、何を感じ取れるのか。

ここからディスクレビューとして、全8曲の解題を試みたい。

 

とはいえ1曲目を聴いていただければどんな衝撃かはすぐ分かるだろう。何故なら────

 

M1:巳

開始23秒から、いきなり全力でふるい落とす曲だからである。

 

率直に言って「これは本当に音楽なのか?」と思った。

「叩く」というより「破壊する」に近いドラムの音に始まり、多種多様なノイズと音飛びが耳をざらつかせ続ける。本来なら「メロディ」と呼ばれるような音の連なりを発見するのは困難を極め、数少ない手がかりとなりそうなベースラインとシンセリフは「地鳴り」とか「低音倍速にしたお経」のようである。総体としては爆音のノイズと音の濁流である。

「いい/悪い」「好き/嫌い」の次元に入る以前に、まず脳内に大量の「?」が浮かぶ。聴く困惑である。

 

23秒で私を唖然とさせた曲(?)だが、恐ろしいことに、これを聴けば「ニューラルへ縹緲」がどんなアルバムかがすぐ分かってしまう。何故なら、

 

アルバム「ニューラルヘヒョウビョウ」トハ

マサニ イマイキオイノアルユニット”ヴイ/アール コンバーターズ”ノ

アタラシイアルバムノ ナマエデアル

 

 

全部歌詞に書いてあるからである。

これが綿菓子かんろによる綺麗で明瞭な声で淡々と読み上げられる。ほぼ歌っていない。なので歌詞というより説明と言ったほうが正確かもしれない。

この1曲目のタイトルは「」。「へび」と読むのだが、このように自己紹介・作品解説になっているところから、「」のもじりでもあるのではないかと私は予想している。(本当の名前の由来は後述のオフィシャルリリックブックに記載がある)

 

今作は全8曲中7曲がシングルとして先行配信されており、唯一アルバムが聴けるようになるまで秘匿されたのがこの曲だが、当然の話である。曲そのものがネタバレなのだ。

私が今作で、最もどうなっているか気になり、何とか解き明かしてやるぞと意気込んでいたV/R Convertersの肝の部分、コンセプトについても答えがそのまま書いてある。

 

ジッケンテキ・ハカイテキナサウンド

ソコニソンザイスル ポップヲモトメ

コレマデニナイ ベツノアプローチヲハカリ セイサクシテイル

 

 

 

「実験的・破壊的なサウンド/そこに存在するポップ」これである。こうなると考察の時間はもう終わりである。

 

数え切れない種類の音の闇鍋状態で容易に理解できない音像に対し、歌詞を考察することが好きなリスナーにいきなり答えを提示して何も言えなくさせてしまうような歌詞、というか説明。アンバランスな楽曲の構造だと思う。この曲自体が「実験的・破壊的」とも言えそうである。

このように作品の特徴をわざわざ言葉で説明してくれるのは親切で助かるが、轟音の中で淡々と明瞭に語られる構造は、豪雨の中でアナウンサーが台風情報を伝える様子に近い。作品の意図が伝わるか伝わらないかギリギリを攻めているようにも思え、それがかつてない緊張感を煽る。

とにかくこれからアルバム通して一筋縄ではいかない体験が待っていることだけが分かる。もうこのカオスに身を委ねるしかないのだ。

 

 

とはいえ聴いていると、コンセプトを示す言葉通り、カオスの中にも心に触れるものが見えてくる。

地鳴りに似たベースラインやシンセリフも徐々に格好良く聴こえてくる。合間に挟まれる鐘のような音からは無機質さと神々しさを同時に感じられる。やがてノイズにさえ輪郭があるように見えてくるのだ。

 

そして1:05、不意に轟音が収まる瞬間聞こえる何者かの息切れと咳払い

こちらまでつられてため息をついてしまい、そこで初めてこの訳の分からないサウンドに自分が没頭していることに気づく。緊張と緩和の妙である。

この曲で用いられている多様な音の正体はアルバムを聞き進めれば予測がつくのだが、先に触れてしまうと、2曲目以降の一部を加工したり逆再生したりして切り貼りされたものと見受けられる。さらには過去曲も使用されている可能性がある。私は最初のノイズで1stアルバム1曲目を想起した。

 

これまでの作品ではアルバム全体の中にジャンルを超えた多様な楽曲があったのに対し、今回はこの1曲の中にその多様さを全てブチ込んでいるという捉え方もできる。

であれば暴挙だと思う。が、意図がどうであれ、1曲の中でこちらの感情は手玉に取られてしまっているので、試みは成功していると言えるだろう。もうこれでアルバムを最後まで聴くしかなくなるのだ。

 

 

やがて複雑怪奇な音をかいくぐり、きっちり心を掴まれた状態で音の奔流を抜けた後、綿菓子かんろの声による、淡々と、しかし決然とした宣言をもって、この曲は終わる。

 

アナタニミツケラレ コチラモアナタヲミツケル

ソシテ、コレガ 「ニューラルへヒョウビョウ」デアル。

 

 

そして、カオスな音をくぐり抜けた先には────

 

M2:樹氷

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2曲目、新体制第1弾シングル「樹氷」があった。

先程までの潰れた音の濁流はどこへやら。一瞬でアコースティックギターの描く冬景色である。

 

この曲は新体制初の曲であるため、唯一リリース前に紹介動画が出ている。それによれば、

 

無機質と捉えるか、暖かいと捉えるか。

聴く人によって印象が異なる一曲なのではないでしょうか。

 

 

とされている。

 

 

私はこの曲を聴く前、完全にタイトルに印象を引っ張られた状態だった。「樹氷」。再始動する音楽ユニットの最初の曲としてあまりに潔く、無限なイメージの広がりをも感じるタイトルである。

そして実際に曲を聴いても、タイトルと寸分違わぬ景色を思わせる曲だった。綿菓子かんろが本格的に作詞担当になったことにより、V/R Convertersが言葉に対する鋭敏な感覚と精度をさらに強化したことが分かる。

 

そういうわけで私の印象は「暖かい」とは真逆だったのだが、だからといって必ずしも「無機質」ではなかった。

特に、最初から最後まで楽曲の色を決めているアコースティックギターを始めとする弦楽器類が「樹氷」という言葉に集約される冬の冷たさを感じさせる。だが豪雪そのものではなく、翌朝の晴れた空と澄んだ空気に近いイメージである。「心が洗われる」などとよく言うがこの曲は少し異なり、聴くだけで背筋が伸びるようだ。

作曲・アレンジはTalich Helfenによるものだが、弦楽器類は全て(ストリングス以外)ゐつペゑによる人力の演奏である。この点が曲の「暖かさ」、人間性を担保している。

余談だが、この曲ではアコースティック/クラシックギター以外にもマンドリン大正琴等、本当に大量の弦楽器が用いられた。レコーディングに使用した楽器で埋め尽くされ足の踏み場もない部屋の様子がゐつペゑのSNSから投稿されるという戦慄の一幕もあった。そのこだわりは狂気的だが、同時に非常に人間味も感じさせる。

 

「無機質さ」の方を担保しているのは、2番以降、シンセ等電子楽器が全面に出て展開が変わる部分だろう。ここはとにかくクール(カッコいいの意)である。それまで、積もる雪の中を転ばないよう注意深く踏みしめるかのごとく一つずつリズムを刻んでいた曲が、いきなり(体感で)倍以上の音数になり、除雪車の駆動音のように変貌するのには目を見張る。

1番までの「暖かさ」を生音の音色とすれば、これは私が考えるV/R Convertersが有する「華やかさ」の延長線にあり、2番以降の変化はこれまでアルバム単位で表現されてきた「多様さ」の表れだと思う。

つまりこの1曲でV/R Convertersの良さをほぼ全て網羅していると言えるだろう。まさに決定版、新体制で最初に披露されたのも納得である。

 

 

そして新メンバー綿菓子かんろが、「暖かさ」と「無機質さ」を横断する。これにより両極が共存しているというのが、以前と違う良さの部分である。

非常に感覚的な話になるが、歌の中に情感は確実にあるはずだ。だが同時に、フラットに、一定の距離を置いて冬景色を外から眺めているような印象の歌い方でもある。これは特に1番サビを歌詞と合わせて聴くと顕著だ。

 

いたましい骨はすべて食べて 雪のごとく

愉しげに踊った 絶えずに

沸き上がる よろこびをひとつ

 

 

残酷な自然の獰猛さと「よろこび」が共存している、非常に頭に残るフレーズとなっている。

曲調に反して歌詞が怖いといったギャップが魅力の曲は数あるが、上記の部分を実際に聴くと、そういった曲と一線を画していることが分かると思う。自然の獰猛さも「よろこび」も、同じ雪の下に生じるただの事象として並列に感じられるのだ。ギャップによってむやみに感情を煽ってくる歌ではない。その空気がかえって心地よい。

 

故に、事象のどちらに目を向けるかによって印象が変わる曲になっているのだろう。

 

そもそもアルバムタイトルの「縹緲」には、次の意味がある。

 

1 広くはてしないさま。

2 かすかではっきりとしないさま。

 

https://kotobank.jp/word/縹渺-613521#w-613521

 

氷雪が積もった後の広大な景色と、そこにある両極性の共存。絶妙なバランスをもって、まさに「縹緲」を体現している曲と言える。

 

そして以降全ての曲が、「樹氷」とは異なるやり方で「縹緲」を提示するのである。

 

 

さてこの曲は、再び雪が眼前を覆い隠すように、吸い込まれるようなフェードアウトで終わる。

だがすかさず何かがトルクを上げていくような音が聞こえ、徐々に音量が上がり────

 

M3:ム自覚

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汽笛の音が鳴る。

 

より率直な印象で言ってしまうと、きかんしゃトーマスのSEのような音である。こんなのアリかよという驚きとともに、3曲目にしてアルバムはトップギアに入る。

本作で1、2を争う好きな曲、「ム自覚」である。

 

この曲がシングルとして発表された時、「アルバムに入るなら2曲目」だと予想していた。自分の好みの問題でもあるが、サイン波だけでできた「リサージュの風景」を除く過去作の傾向から、冒頭部分に盛り上がる曲を配置してくれるだろうと考えたからである。「樹氷」の方はその落ち着いた曲調から3、4曲目と思っていた。

結果真逆だったわけだが、これにより「樹氷」とのコントラストが生まれ、最高の高揚感でこの曲を迎えることができている。

アルバム8曲中7曲を先行して出すのは思い切った施策だが、その分曲順と曲同士のつながりにより驚きが生まれ、曲の魅力が相互に底上げされている。見事な構成だと思う。

 

 

樹氷」と打って変わってエレキギター・ベース・ドラムのバンドサウンドを前面に出した、ストレートで、否が応でもテンションの上がる一曲である。

この曲も作曲はTalich Helfenだが、アレンジをゐつぺゑが単独で行っており、V/R Convertersの熱い部分がいかんなく発揮されている。実験的な曲群において、純度の高い楽しさを呼び起こしてくれる。

だが当然ひねりもある。特徴的なのは、バンドサウンドの中で、ドラムが「巳」と同様、音が潰れて破壊的な印象になっていることと、その上に綿菓子かんろの可憐な歌声が乗っていることである。まっすぐに見えて実は合いそうにない各要素が奇跡的に合致している在り方と、妙に頭に残るトーマスの汽笛が、この曲も「実験的・破壊的なサウンド」の枠組みの中にあることを納得させてくる。

 

以上のような楽曲構成が、この曲の「縹緲」な部分の一つだが、歌詞も同様である。

抽象的で、特定のストーリーや情景を描いたものではなさそうだが、全体的には「衝動」や強い「感情の動き」が伝わってきて、曲と合わせてこちらも感化されてしまう。やはり「樹氷」と異なり、綿菓子かんろも楽しそうに歌っているように思える。

ある意味ではラブソングにも聴こえるかもしれない。特に印象的なのは1番サビ前である。

 

お手上げで 浮き足立つ放課後

冷めぬうちにどうぞ 動揺 焦燥 知りたい?

 

 

まさにそれを知りたいからこうして聴いているのだ。「動揺」も「焦燥」もこの曲の中では「高揚」になり、ポジティブに知覚される。

ラブソングに聴こえると言ったが、一方で2番サビ頭はこうである。

 

無償のナニなんて 幻想だ

 

前段で「愛」や「恋」を想起させてから「幻想だ」と一蹴する。とても痛快なフレーズである。

挙げたフレーズはごく一部だが、一曲全体を通してプラスマイナス両方の感情の動きが描かれているように感じられる。

情景に対する客観性と曲調の変化を核としていた「樹氷」と異なり、どこまでも主観的に、思うままに動く感情の在り方を通して「縹緲」を描いているのが、この「ム自覚」だと捉えることができる。

「ム自覚」=無自覚=自覚していない状態だから、本能的な感情の機微を描けるのかもしれない。

それ故に、本当に楽しい。決定版である「樹氷」とは別の意味で、多くの人に聴いてほしい一曲だ。

 

 

そしてこの曲は、ラスサビ途中からアウトロまで徐々にBPMを上げていく。

再び汽笛の音が鳴り、速度は脱線寸前の汽車を思わせるほど最高潮に達し、ついには────

 

M4:長汀曲浦

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一撃で海の底に叩き落とされる。

 

4曲目「長汀曲浦」(ちょうていきょくほ)。恥ずかしながら、今回この曲で初めて知った言葉である。次の意味があるという。

 

長く続く水際と、曲がりくねって変化のある浦。景色の良い海浜のこと。

https://kotobank.jp/word/長汀曲浦-568883#w-568883

 

この曲をシングルで最初に聴いたときは、正直なところあまり印象に残らなかった。他の曲の個性が強すぎるという要因もあるが、アルバムの箸休めとして作られたのだろうと思っていた。

事実そういった立ち位置ではある。「巳」〜「ム自覚」までのひたすら感情を手玉に取られるパートは終わり、一息つけそうなのがこの曲だ。

 

だがアルバムで聴くと、やはりただの箸休めではなかった。「ム自覚」のラストで最高潮に達してからの、唐突なピアノの暗く深い絶望的な1音、いや一撃がらりと3曲目までの情景を変えてしまう、強烈な驚きを与える曲でもあった。

その上1音目のインパクトだけの曲でもない。タイトルの意味を知ったうえでこの曲を聴き進めると、「樹氷」同様、言葉通りの美しい景色に存分に浸ることができる。先程までのバンドサウンドは鳴りを潜め、ピアノと環境音が中心となり、夜明け前の暗い海辺を思わせる。

かといって暗いだけの曲でもない。Bメロあたりからさざ波のような(具体的に特定はできないが恐らく)シンセ類の音とグロッケンのような音が、徐々に水面に光が反射していく様をイメージさせる。さらに「人間性」や「熱さ」の要であったゐつペゑが、叙情的なマンドリンでイメージを強化している。

 

この曲はバラードでありゆったり没頭できる曲なのだが、意外なことに長さは3分5秒である。実際聴くと+1分はあるように感じられるはずだ。おまけに2番がない。その1曲の限られた中で、上記のような水際のイメージや、夜明け前から夜明けへの遷移にも似た曲調の変化を全部盛り込めるのは何故だろうかと思う。

素人目にも作曲・Talich Helfenの「構成力がすごい」ということは分かるが、できればここを、実際に音楽を作っている人がどう分析するのか知りたいところである(というかこのアルバムは全部そんな曲である)。

 

この曲も曲調だけでなく、歌詞でも「縹緲」を表現しているが、「ム自覚」と異なり、登場人物がいて具体的なシチュエーションが想定され、物語的に見える。

ただ語られているのはごく主観的な想いである。

 

願わくばあなたにも いつか届いてほしい

 

鏡には映らないとしても

あなただけでいい

 

 

一人の登場人物から誰かに語られる思慕の念。極めて一方通行な想いが見て取れる。おまけに最後は、

 

誰にも知らない

私たちふたりだけ

 

 

「ふたりだけ」と自己完結してしまっている。故に我々にはその想いの結末を知ることはできない。

この在り方が「縹緲」=はっきりしない様であり、「長汀曲浦」=長く続く水際と見事に合致している。綿菓子かんろにより歌詞が強くなったと書いたが、より具体的には情景描写、ビジュアルな部分が強化されたのだと再認識できる。

 

 

ここまでの曲は曲同士の空き時間がゼロであり、絶えず流れ続けていたが、この曲は海辺が、思慕の念がどこまでも続いていくかのように、余韻を持って終わる。

1曲の中で最後まで一貫したコンセプトを保った、隠れた名曲である。

 

M5:滄海桑田

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そしてここからまた新たな始まりを迎える。

 

5曲目「滄海桑田」(そうかいそうでん)。これも今回初めて聴いた言葉である。こちらは次のような意味がある。

 

滄海変じて桑田となること。世の中の変遷が激しく予測がつかないこと。滄桑。

https://kotobank.jp/word/滄海桑田-551897#w-2027696

 

要するに時を経て海が畑になるということのようだ。いきなりスケールの大きい話になってしまった。

「長汀曲浦」の言葉の意味はあくまでも情景そのもので、曲調を通して移り変わりを表現していたように思えるが、こちらはタイトルが既に壮大な時の流れを含んでいる。この時点で「縹緲」のイメージに合致していると言える。

 

そんな大きな概念が結局どんな曲になったのか。

何かの始まりを予感させるような曲であり、本当に、心の底からワクワクするような曲である。

「ム自覚」に並び、アルバムで最上級に好きな曲である。

 

 

「始まり」と書いたが、実はV/R Convertersの現体制で最初に耳にすることになる曲がこの「滄海桑田」である。

第1弾シングルは「樹氷」だが、その前の、再始動初報のティザーで流れていたのがこの曲の一部である。今のV/R Convertersの始まりを告げた曲と言える。

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ティザーのためだけの曲という可能性もあったが、アルバムでまとまった楽曲としてフルで聴けたのは嬉しい誤算だった。

 

 

そしてフルバージョンは先頭から予想をゆうに超えていた。

3拍子のリズムから始まり、間もなく流麗なストリングスが入り、ハンドクラップその他パーカッション類の音がまさかのフラメンコのリズムで響く。この時点で全身が総毛立った。これが最後まで続くのでずっと震えっぱなしだ。

ジャンルの横断が凄すぎて類似する楽曲が思いつかないのだが、あえて言うなら、初めて聴いたときはシン・エヴァンゲリオン劇場版冒頭のいきなりパリで戦いが始まったときの高揚を思い出した。

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映画の劇伴のような大スペクタクルを思わせる音楽とは言えるかもしれない。聴くだけで周囲の世界が一変したかと思うほどである。

 

こうした点から「ム自覚」と同じように非常にテンションの上がる曲なのだが、違いは緊張感の強さにある。

長調/短調で言えば短調寄りに聴こえる音の響き(そう聴こえるだけである。曲が複雑すぎて実際どちらかよく分かっていない)もあるが、先述したフラメンコのような非常に細かな音や、変拍子BPMの変化等、総じて言えばリズムの変化が緊張感を与えている。詳細は作曲者Talich Helfenによる解説記事に記載されているが、音楽理論の知識がある程度必要なのと、本人でさえ分かっていない箇所があると見受けられるほど難解なのでここでは割愛したい。

とはいえ、理論を気にせずとも、一度聴けば絶えず変化する起伏に富んだリズムであることはすぐに分かると思う。このリズムが焦燥感と何が起こるか分からない感を掻き立てる。これがタイトルの通り変遷の激しさ、壮大な時の流れを思わせる。

 

一方歌詞に注目すると、”川へと 海へと 土に変わる”などタイトルそのままに時の流れを描いている箇所もあるが、それと同じくらい景色が断片的に感じられる。“夜の中”、“冴やかの空”、“東の雲”、“木暮”、“瓦礫の中”等々。一つの時の中に居ながら変化が激しすぎて景色が結びつかないような感覚を覚える。

その結果、全体の文脈による意味的な理解を超え、歌詞の簡潔な1フレーズに刺されるのである。特に印象的なのはⅮメロ(なんとこの曲はEまである)、クライマックスの手前、

 

未遂で終わるほどに 浅くて安い物差しなんて

手放してしまえばいい 枯らす

 

 

枯らす”これである。何が何をどうしてどうやって枯らすのかは推測するしかないが、ゐつぺゑのベースラインが爆音となり、全パートが最大級の盛り上がりを見せる中この言葉が来る。すると理解よりも先に「カッコいい」という言葉が出てしまう。

そしてこの後最後のブロック、Eメロは、先述のティザーで流れていたあのパートである。再始動初報を知った時の興奮を嫌でも思い出す中、

 

浮動へ

 

たった3文字で歌詞は終わる。”枯らす”と同様、徹底的に「考えるな、感じろ」を地で行くフレーズだ。

だが曲を最初から最後まで聴けばここから何かが起こるのだと、始まるのだと、確かな予感が心に宿る。そのままアウトロへ入り、最高潮の昂りで曲を聴き終えられるはずだ。

 

最初から最後までワクワクしたまま、ずっとカッコいいまま、見たことのない景色を見せてくれる他に類を見ない一曲である。是非聴いて、この感覚を体験してほしい。

 

 

そして、始まりの予感が溢れた先は────

 

M6:メ覚メ

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またね。

 

 

いなくなった誰かの別れの言葉である。

 

この6曲目「メ覚メ」はアルバムで唯一ゐつぺゑ単独で作曲を行っている。

「滄海桑田」が激しい曲展開と断片的なシーンであるのに対し、こちらは一定のペースで一貫した情景を描いている。

「ム自覚」のアレンジで見せた熱さとは真逆の、落ち着いた、しかし確かなリズムが伝わる曲となっており、Talich Helfenのアレンジと合わさって上品ささえ感じられる。

 

なのに最初から最後まで不穏である。

ドラムははっきりとリズムを刻んでいるが、「巳」「ム自覚」ほど音が潰れていないにせよ歪んでおり、どことなく不安定さを感じる。カラカラとした空き缶のような、金属(のような)音がかすめる不安のように聞こえる。

 

それでもただ不穏なだけに終わらずいい曲として聴けるのはサビの強さによる。

2回目のAメロから重厚なストリングスが入ってムードが高まり、やはりゐつぺゑが演奏しているであろうシタールのような音とともにサビへ入る。そこから多様な音が入ってきて、平坦だった曲調に感情の動きが生まれる。不穏さが解決したように思えるのだ。

 

ただし注意すべきは、実際は全く解決していないことである。

「長汀曲浦」では曲調の変化により「徐々に光が反射していく」ように感じられたが、この曲は不穏なままだ。感情は動いても希望は見えてこない。その証拠に1番サビは次のような歌詞で終わる。

 

そこには誰もいない

たとえ振り向いてもひとりきり

 

 

ここだけでなく、他の歌詞からもひたすら荒涼としたものが広がっている様を感じられる。

歌詞全体からは、「いなくなってしまった誰かを想い、その人が居るはずの“廃墟”(場所)を探し続ける」というストーリーが読み取れる。だが探しても探しても“誰もいない”。その様子から終わりのない徒労感や孤独をどうしても見出してしまい、逆に聴いているこちらの方が誰もいない“廃墟”にいるかのように錯覚する。

時の流れを夢のような大スペクタクルとして描いた「滄海桑田」とは異なり、永い時のマイナス面、終わらないことによる苦しみが描かれているように思える。夢に耽溺できない状態は「目覚め」=「メ覚メ」と言っていいかもしれない。

「縹緲」の意味になぞらえるなら、詞曲ともに「果てしないさま」に特化した表現になっていると言えるだろう。

特に最後の歌詞は、永い時の中で、誰もいなくともひとりきりでも誰かを探し続ける果てしなさを象徴している。

 

春の芽が鈍く光る頃に

 

芽吹きの季節である春が“鈍く”光るのである。とてつもない皮肉である。

 

 

さて、今回の収録曲をシングルとして聴いていた当初のイメージでは「長汀曲浦」がアルバムの箸休めだと思われた。だがアルバム通して聴くと、本来の箸休めはここだったのではないかという気がしてくる。

というのもこの曲は、ノイズの音の余韻として、希望とも諦観ともつかない春の予感を残して終わるが、この後すぐ「この曲がここにあってよかった」と嫌でも思わされるからである。

何故なら次の曲は────

 

 

M7:向寒

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アルバム最大の問題作である。

 

7曲目「向寒」。Talich Helfenとゐつぺゑによる共作である。

率直に言って「これは本当に音楽なのか?」と思った。1曲目「巳」に続き2回目である。

厳密にはシングルとして先に出ているので、最初に唖然とさせられたのはこの曲である。というか順序はどうでもよく、全8曲入りアルバムの2曲、全体の4分の1がすぐに音楽だと認識できないというのは常軌を逸している。

 

 

本当に滅茶苦茶やっている曲のため、滅茶苦茶度合いの説明を言葉で試みるのがとても難しいのだが、この曲全体の構造が「縹緲」そのものと言っていいほどである。

専門的な音楽知識が乏しい自分が可能な範囲で挙げると、まず一般的な「Aメロ→Bメロ→サビ」といった構造は完全に破壊されている。Eメロまであった「滄海桑田」でさえサビがある程度明確であったにもかかわらずである。

加えて1番2番の区別もなく、楽曲全体の中で共通しているメロディが”汝生れけり”から始まるひとつしかない。後は全て異なるメロディになっている。

そのためこの曲は1つの曲として生まれたのではなく、4曲くらいを1つに無理やり連結してできたように聞こえる。

異なる曲の連なりの中で、1つのメロディ(主題)が形を変え何度か繰り返される構成は、一般的なポップスよりもある意味クラシックに近い。この一曲、4分18秒の中に4楽章が圧縮されていると考えると、情報量もただ事ではない。「滄海桑田」の直後に聴いたら頭がパンクしたかもしれない。と考えると前曲「メ覚メ」の落ち着きが非常にありがたく思えてくる。

 

 

V/R Convertersの楽曲の中でこういった滅茶苦茶をやるのは主に作曲担当の二人である。

だが「向寒」においては綿菓子かんろもはっちゃけてしまっている。アルバムにおいて、ここまで常に職人技と言っていいほど高い精度の歌詞を提示してきた彼女だったが、なんとこの曲の歌詞は全て古語である

私にさほど古語の知識がないため断片的理解にとどまるが、「樹氷」と対比すると少し分かりやすい。「樹氷」は徹底して雪の光景を客観的に描くことで「無機質さ」と「暖かさ」を両立している。一方こちらは、「向寒」=寒さに向かうことというタイトル通り、主観的な視点で冬の寒さに対する感情の激しい動きを描いている。

飢え、孤独、寒さへの恐れである。

 

つゆも知らず 疎ましきひとよ

心憂さ消えぬ 飢へて死なしむるは近ひゐつか

孤濁に 冷えに 怯へて

耐へず 恐れ 我はわななけり

 

 

ひもじい。寂しい。寒い。人間誰もが本能的に感じる恐れである。古語でできた歌詞において、ここだけが直感的に分かる。格調高い言葉とは裏腹に読み取れるのは生々しい恐怖である。

 

 

曲は滅茶苦茶で、歌詞も苦しそうで、よくわからない。

それでもこの曲から耳が離せなくなるのは、タイトルと真逆の熱さを感じるからである。

 

スクラッチ音やパチパチとしたノイズから始まり、急にテンポがゆっくりになったと思ったら音が消えギターとベースが立ち上がる。かと思えば突如ジャズピアノが挟まれ、まもなく深海で録音したのかと思うほど沈んだ音になる。言葉にするとより全体像が分からなくなるが、「巳」同様、混沌とした中にカッコよさ、美しさは確実に存在している

冒頭で提示されたコンセプト「実験的・破壊的なサウンド/そこに存在するポップ」はアルバム全曲にあてはまるが、最も体現しているのはこの曲だろう。「巳」はこの曲を受け容れる準備運動だったのだと思わされる。

そして「向寒」の「ポップ」は、「樹氷」では「暖かさ」として表現されていた人間性にあると思う。

この曲においては、冬の苦しさと裏腹に「熱さ」として表出している。

最も「熱い」のは終盤のギターソロなのだが、公式の「抜粋」(パートごとに何をしているかの解説動画)によれば、プレイヤーであるゐつぺゑに加え、普段は鍵盤を弾くTalich Helfenもギターを持ち、ギターソロバトル(掛け合い)を繰り広げている。

https://youtube.com/shorts/WDKo2rWhr6E?si=G3vpJimrw2xlBW13

 

ライブハウスなら歓声が上がっているだろう。

「飢え、孤独、寒さへの恐れ」から始まる歌詞とは明らかにテンションが違うが、「人間性の表れ」という点ではリンクしている。恐怖や、ネガティブな感情のままに喚き散らし暴れまわることが一周周って爽快感を生む、ということなのかもしれない。これも確かに人間性の一側面である。

 

そして、ここまで比較的冷静さを保ってきた綿菓子かんろのボーカルも、最後の最後で「熱さ」を見せている。最後のブロックの歌い出し、

 

生を超て 夢をみる

 

 

”超へて”の「へ」(え)。ここにこれまで制御してきた「熱さ」が噴出しているのを感じる。

この瞬間のカタルシスが凄まじい。

こればかりはもう実際に聴いて確かめていただきたい。このために、4分以上破壊的なサウンドを聴いて苦心しながらポップを探し出す価値はあるはずだ。

 

 

こうして喚き散らしながらやりたい放題やり尽くした果てに、「ム自覚」同様、徐々にBPMが上がり、ふと音が止まる。

何者かの息切れと咳払い

ここまで聴いてきたなら「あっ」と驚くだろう。「巳」で使われていたあの音である。

その後何かが壊れてしまったかのような破壊的な音が鳴り、この曲は終わる。

 

そして一瞬の静けさの後、現れたのは────

 

 

M8:濁

youtu.be

 

 

 

夕立だった。

 

8曲目、最後を飾る曲「」(だく)。

これで私は泣いてしまった。

 

 

「ム自覚」「滄海桑田」が特に好きと書いたが、この曲は「いい/悪い」「好き/嫌い」の次元では到底割り切れるものではない。このアルバムを聴く意味全てが集約されている、万感の一曲である。

前曲「向寒」に代表されるような、楽曲の構造も表現しているものも複雑極まる7曲を経ているからか、この曲の最初は拍子抜けするほど穏やかで、のどかである。「長汀曲浦」「メ覚メ」のような不穏さもなく、開けた感じがする。何故かは分からないが私は青雲(線香)のCMを思い出した。

 

youtu.be

 

 

このようにゆったりとしたバラードだが、その中にもノイズ混じりのざらついた音、無機質なシンセ、強烈なベースラインがあり、かと思えばグロッケンのキラキラした音や、正体不明のパーカッション類のユーモラスな音が混じる。「滄海桑田」や「向寒」のようなわかりやすく急激なリズムの緩急ではないが、ほぼ一定のスローテンポの上にはおもちゃ箱をひっくり返したような多様な音があり、変化に富んでいる。

多様な音というのは、私がV/R Convertersに惹かれた「華やかさ」の要因である。これまでと立ち位置が異なる挑戦的なアルバムの、「華やか」とは一見遠そうなバラードからこうして原点を見いだせるのは感慨深い。

 

歌詞は、誰かの主観と情景描写が混濁しており、「メ覚メ」のように一貫したストーリーを読み取れる類ではないように思える。「滄海桑田」のように断片から想像が膨らむタイプだ。「濁」ではそれが曲調と補完しあい、全体として美しい景色を想起させてくる。雄大な自然を思わせるような、大団円にふさわしい景色である。

 

 

「渾身の一曲の後に落ち着いた曲を配置して締める」というのはアルバムの構成としては比較的よく見られる。前作「クヴェールと貼箱」はそうであった。

だが本作を最後まで聴くと、今回は真逆であることが分かる。ラスサビからアウトロにかけてバンドサウンドが前面に出て、「向寒」を凌駕するほどの全力の歌とセッションに変貌するのだ。

「渾身の一曲→落ち着いた曲」ではなく「渾身の一曲→渾身の一曲」である。そのためアルバム最後の最後までこちらの感情が昂ぶったまま聴き終えることになる。特にこの曲ではずっとゆったり進行した状態から爆発が起こるため衝撃もひとしおである。改めて今作は曲単位でもアルバム単位でも緩急のついた構成が素晴らしい。

 

そして終盤の爆発的展開に合わせ、本作の根幹となる歌詞が歌い上げられる。

「濁」、そしてアルバム「ニューラルへ縹渺」全体で最も重要なのは次のフレーズである。

 

思ったより 夕立の声は嫌いじゃない

 

 

「濁」も曲の構成が普通と異なるが、明確にサビが2か所あり、どちらも上記のフレーズから始まる。1つめのサビは穏やかな曲調のままで、次のように歌われる。

 

思ったより 夕立の声は嫌いじゃない

すべて 無に帰してくれるような

安堵と優しさだけが この身降り積もっていく

 

 

見ての通り、ここで描かれているのは”夕立”の優しさである。

「巳」の中に、1stアルバム「The Starting Points」の1曲目を思い出す音があったと書いたが、この「夕立」に対する捉え方からも1stアルバムを思い出さずにはいられなかった。

1stの2、3曲目は「晴色アンブレラ」「快晴ドライヴ」。V/R Converters2作目と1作目の動画投稿作品である。

 

youtu.be

 

 

youtu.be

 

この2曲を1stアルバムの流れで聴くと、「雨上がり→快晴」という情景の変化が見て取れる。そしていずれも歌詞は「雨に負けず快晴の日を目指す」というスタンスである。

“快晴”から始まったV/R Convertersが今、4thアルバムで“夕立の声は嫌いじゃない”と歌っている。“夕立”に優しさを見出している。

今に至るまでの時の流れ、あらゆる変化がここに集約されていると言っても過言ではない。

 

そして「濁」のラスサビ、全力の歌とセッションが爆発するクライマックスでは、こう歌われる。

 

思ったより 夕立の声は嫌いじゃない

すべて 切り離してくれるような

悲しい静けさだけ 窓を打ち鳴らしている

 

 

 

ここで私は泣いてしまった。

この前の段では”揺れる青楓”、”地を這う若葉”と、自然の美しさ、芽吹きを思わせる言葉が並んでいた。

それら全て洗い流してゼロに戻すかのような歌と歌詞と演奏なのである。夕立の後は晴れて新たな芽吹きがある、といったポジティブの類ではない。その無情さが悲しくて泣いた。

同時に、夕立には優しさだけではなく”悲しい静けさ”があること。それを分かったうえで“夕立の声は嫌いじゃない”と歌われている事実。V/R Convertersの歴史と変化も相まって、無情さを直視してなお”嫌いじゃない”と思えるようになったことに、万感の思いで泣いた。

 

「濁」が表現する「縹緲」はこの点にある。

樹氷」が雪景色を通して「暖かさ」「無機質」という異なる二軸を両立させていたのに近く、この曲では「夕立」に代表される自然・風景の描写の二面性を通し、果てしなくはっきりとしない領域を表現している。

優しくもあり悲しくもある。雄大な情景と共に両方の感情を極大まで高め、打ち鳴らす雨のような渾身のラスサビで昇華する、アルバム屈指の一曲である。

 

あと1点、Single Ver.とアルバムバージョンの違いについて触れる必要がある。

「濁」含め先行してシングルで発表された7曲は、アルバム収録にあたり調整されている。主に曲同士のつながりをシームレスにするために曲の区切り方を変えたり、アウトロの無音部分をなくすといったものである。また正確なことは言えないが、コーラスや一部楽器の音量も微妙に変わっているように思える。

だが「濁」はもっと明確に異なっている。最後の、渾身のセッションからのアウトロが、Single Ver.では徐々にフェードアウトしていくのに対し、アルバムでは明確に終わりがある。

 

是非、実際にアルバムを通して聴いて、最後に鳴る「ある音」まで辿り着いてほしい。

例え夕立が止んでも止まなくても、優しくても悲しくても、私たちにはそれでも目覚めがやってきて、また外へ出るのだ。

 

帰結:おわりに~ニューラルへ縹緲とは

本作「ニューラルへ縹緲」は本日12月21日に配信開始されたアルバムである。

ではそのディスクレビューを何故本日のうちに公開できたかというと、10/26に開催されたイベント、M3-2025秋でCDが先行販売された際に購入し、先行して聴くことができたからである。

 

この日は生憎の雨だったが、V/R Convertersはじめ多くの音楽に出会うことができ、なんとブースでTalich Helfenご本人のお姿を拝見できてしまった。あまりにナチュラルに売り子をしていらっしゃったので「あれってもしかして……」と気付いたのは購入してブースから離れた後である。

 

(2025/12/22追記:記事初出時、この日売り子としていらしていたのはTalich Helfenさんとゐつペゑさんのお二方だと思い込んでいたのですが、XでTalich Helfenさんに訂正いただき、ゐつペゑさんではなく雨里さんであったことが分かりました。雨里さんはノベルゲーム「U-ena-遠花火の少女」への参加以来V/R Convertersとの関わりがあるお方で、「苦痛を廻」では作詞にクレジットされています。ここに訂正いたします。)

 

 

また綿菓子かんろ個人名義での新作「紙上文学」や、サブスク配信とデータ販売しかなかった「クヴェールと貼箱」のCDも入手できた。なお「紙上文学」もV/R Convertersとは別方向に素晴らしい作品なので、興味があれば是非聴いてみてほしい。

https://alliaria.booth.pm/items/7637234

 

総じてこの日は、雨にもかかわらず充実したいい一日だった。

だからこそ「濁」の数あるフレーズの中で”夕立”が目に留まり、揺さぶられたのかもしれない。

 

 

ここまで「ニューラルへ縹緲」についてディスクレビューを試みてきた。どれも複雑で容易に一言では表せない曲だが、少しでも聴いてみようかなと思っていただけることを願っている。

まだよく分からない部分が数多く残っていると思うが、アルバム配信と同じく本日通販が開始となったオフィシャルリリックブックからヒントを得られるかもしれない。こちらは歌詞に加え、ゐつぺゑ、綿菓子かんろへのインタビュー、制作スケジュールや楽譜など、より深堀りしたい方にうってつけの一冊である。

https://vrconverters.booth.pm/items/7779753

 

 

本稿では「買った人のお楽しみ」ということでリリックブックの内容にはあまり触れていない。それでも本作が「実験的・破壊的なサウンド/そこに存在するポップ」というコンセプトと、タイトルの「縹緲」という観点において極めて一貫したものを有していることは分かる。

どの曲も白黒つかず、広大でとっ散らかった中から素敵なものを見つけ出す必要があるが、その過程も十二分に楽しめるアルバムではないかと確信している。

 

 

そして上記のコンセプトとは別に、もう一つ一貫しているものがあるのではないかと考えている。

それは「樹氷」の全体構成や「濁」の”夕立”をめぐる扱いで特に顕著だった、相反する概念を同じ事象として並列に、ニュートラルに扱う姿勢である。

 

アルバム曲をおしなべて分解再構成してカオスを作った「巳」はともかく、「樹氷」は暖かさと無機質、「ム自覚」なら感情のプラスとマイナス、「長汀曲浦」は曲調の絶望感と美しさ。「滄海桑田」は時の流れを通して見える始まりと終わり、「メ覚メ」は曲調の美しさに反する終わりのない苦しみ、「向寒」は寒さへの恐れに対する楽曲のやりたい放題感と熱い爽快感、といった具合である。

そして「濁」の”夕立”。私は上記の経緯からこのアルバムと「雨」のつながりにポジティブな印象を持ったが、アルバムを「濁」まで聴き、相反する”夕立”に触れ、「雨はあくまで雨でしかない」と感じた。「濁」は”夕立”を「いい」とも「悪い」とも言ってこないのだ。

あの日確かに雨は降っていたが、そこに意味を持たせていたのは紛れもなく自分だったのである。

 

 

このアルバムは詞曲ともに琴線に触れるものが間違いなくあるが、それは聴く側が自分にとっての「ポップ」を見つけようとした結果であり、曲自体がこちらへ積極的に呼びかけるわけではない。

曲の中にあるのは「物語」というか「事象」に近いもののように思える。

私が最初に好きになった3rdアルバムが「明日の君」で呼びかけてくれたのとは真逆である。

 

 

だからこそ、自分次第でどんな意味付けもできる。

私もずぶ濡れで帰って風邪をひいた状態で「濁」を聴いたら、全く見方が変わるかもしれない。

感情を揺さぶられたいとき、逆に凪いでほしいとき。どんな感情の時にも、「事象」として傍らにいてくれる。呼びかけてはくれなくとも応えてはくれる。

 

 

これが「ニューラルへ縹緲」というアルバムである。

 

 

形や距離感は違えど、再生ボタンを押せばそこに在る。このアルバムの存在感の強さは、結局3rdアルバム、ひいてはV/R Converters全ての作品に共通する在り方に帰結するのではないか。

 

 

そんな絶妙な距離感のアルバムが、多くの人の傍らにあるとしたら、それはきっと人を救いうるのではないかと思う。

ますます寒くなる冬、自分に応えてくれる存在が傍らに居るというありがたさは、「向寒」で描かれた「恐れ」に覚えがある人なら、きっと分かるだろう。

 

 

もう一度繰り返すが、このV/R Converters再始動を機に、一人でも多くの方が「ニューラルへ縹緲」を聴いてくれることを願っている。

 

そしてここからのV/R Convertersの歩み全てを、一人でも多くの方と一緒に見届けられるよう、一日でも長く健康的にV/R Convertersが続いていくことを、切に願う。

 

youtu.be

あの鳥には、世界はどう見えているんだろう―「場違いハミングバード」を通して見た世界―【Populus Populus Prologue】

(Canvaにより生成)

 

0.この文章について

この文章は、ナツ(@unfinisheddaisy)さんによる企画「Populus Populus Prologue」へ寄稿したものです。

内容としては、2025年7月6日に発売14周年を迎えるUNISON SQUARE GARDENの3rdフルアルバム「Populus Populus」(ポプラ・ポプラ)の収録楽曲について、一人につき1曲、自由な方法で文章化したものとなっております。

また、この企画では、アルバムの収録楽曲13曲の曲順に基づき、前の楽曲についての文章と連動した内容を書くという、連作形式が取られております。そのため、実際にアルバムを聴いた上で、前曲までの文章を読んでいただくことによって、より全体像が理解できるようになっております。

この文章単体のみを読んだ方、まだ「Populus Populus」を聴いたことがない方、ひいてはUNISON SQUARE GARDENを名前くらいしか知らない方にもできる限り伝わるように心がけましたが、それでも不明な点があるかもしれません。何卒ご了承ください。

もし興味を持っていただけましたら、下記記事より企画の詳細を参照いただくか、旧Twitter(現X)にて#PP_Prologueで検索し、前曲までの文章を読んでみてください。

summerday.hatenablog.com

 

10年以上前、初めて聴いたUNISON SQUARE GARDENのアルバムの曲について語る機会をいただけたこと、そして今になって、この素晴らしいアルバムに新たな視点からスポットが当たることを、とても嬉しく思います。

 

この企画全体を通し、お手持ちのCDプレイヤー、サブスクリプションサービス等音楽媒体の再生ボタンを押していただける方が増えるのであれば、これに勝る喜びはありません。

そして企画の1ピースであるこの文章が、わずかでもボタンを押す手を加速させる助けになれていれば、なお幸いです。

 

 

それでは、本題に移ります。

 

 

 

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スタンディングダウン とられて不愉快なファイティングポーズ
手ごろなお値段でサバイバー みたいなジョークで 手術中につきご法度です

出典:UNISON SQUARE GARDEN 場違いハミングバード 歌詞 - 歌ネット

https://www.uta-net.com/song/115474/

 

 

まるで意味が分からない。

 

 

 

 

 

 

1.アルバム「Populus Populus」と9曲目「場違いハミングバード」とは何か

2011年7月6日発売、UNISON SQUARE GARDEN(ユニゾン)の3rdアルバム「Populus Populus」

4thシングル「スカースデイル」とそこに収録されたTVアニメ「ソウルイーター」リピートショー(再放送)OPテーマ「カウンターアイデンティティ」、そしてユニゾンが最初に広く知られるきっかけとなったTVアニメ「TIGER & BUNNY」OPである5thシングル「オリオンをなぞる」を含む13曲で構成されている。ユニゾンが音楽の幅、完成度、知名度を上げた躍進のフェーズをパッケージングしたアルバムと言える。

 

私にとってはこれが初めて聴いたユニゾンのアルバムだった。

TVから流れたカウンターアイデンティティUNISON SQUARE GARDENという名前を知った。カッコいい曲、痛烈で印象的な歌詞だと思いつつしばらくは何もしていなかったが、あるときYouTubeにあったオリオンをなぞるのライブ映像を見て、何かを強く突き動かされた。

どうしてもあの「オリオンをなぞる」という曲が忘れられない、常に手元で聴けるようにしておきたい、という思いから商品情報を調べたところ、カウンターアイデンティティオリオンをなぞるの2曲が併記されているのを発見。このとき初めて、2曲が同じ人間たちから生み出されていることを認識した。

「どうせ聴くなら、好きな2曲とも同じ1枚に入っていて、いっぱい曲が聴ける方がお得」

という素朴な理由から、シングルではなくアルバムを選択。というのが、私がPopulus Populusを手に取った経緯である。この時期にユニゾンを知った多くの方は似た経緯を辿ったのではないかと思う。

 

 

そして、カウンターアイデンティティオリオンをなぞる目当てでアルバムを手に取り、先頭から再生したが最後、1曲目「3 minutes replay」と2曲目「kid, I like quartet」のシームレスな繋ぎに驚き、そのまま全曲聴かざるを得なくなる、というのも多くの方に共通していると思う。当時の私も例外ではなかった。

私のユニゾンへのイメージは最初にハマった2曲が基準となっていたが、アルバムを聴き進める度イメージの強化と更新が絶えず繰り返された。最初にハマった2曲の好きなところを再発見しつつ、幅の広いアルバム楽曲を通しユニゾンの知らない側面を知ることは非常に有意義だった。

 

アルバム8曲目「CAPACITY超える」などはまさに知らない側面だった。”僕らは声が枯れるまで 存在し続けるんだよ太陽に背を向けながら”*1”ナイフを持つ、その、本当の意味”*2といった芯を突く印象的な言葉を放っていたユニゾンが、”昨日の夜から 冷蔵庫扉が開いてる”だの“大好きだったドラマ 楽しみだったけど 先週末で終わってる”だの*3、日常的かつ具体的なやらかしの数々をジャジーサウンドに乗せて歌っている。

 

note.com

 

上記の記事は、CAPACITY超えると、日常の些細なストレスでうまくいかない一日をリンクさせる形で楽曲を語った文章である。この曲の持つ、ユーモラスに描かれる日々のままならなさへのシンパシーと、それでも自分を大切にし、楽しいことへ向かわせるポジティブな力を鮮やかに表現している。私も全く同様のシンパシーを感じたが、改めて見るとやはり日常生活に当てはまりやすい曲だと思う。

ニゾンはそういうところから距離を置いた抽象性のある言葉が多いと思っていたが、このように親近感が沸くのは嬉しい驚きだった。

 

だが直後。

 

 

 

「1,2,3,4」

 

 

すかさず繰り出される爆撃のようなバンドアンサンブル。

程なくして聞こえてきた言葉。思わず一時停止し、歌詞カードを見返さなければならなくなった。

 

スタンディングダウン とられて不愉快なファイティングポーズ
手ごろなお値段でサバイバー みたいなジョークで 手術中につきご法度です

 

 

お前は何を言っているんだ??

 

 

これが9曲目、「場違いハミングバードであった。

 

 

 

当時は音楽そのものにハマり始めたばかりで、歌詞というものがどう作られるか検討もつかなかったが、必ずしも明確な意味や一貫性が必要ではないことはなんとなく理解していた。

音楽における言葉は、音、リズムとの親和性や、言葉単体の持つ響きという、内容理解とは別の要因が魅力につながるらしい。極論カッコいい言葉の連なりがリズムと噛み合っていれば、抽象性、散逸性、難解さ、文法的なエラーさえスパイスとなりうる。そういうやり方があることは別の音楽を通した体験から知っていた。

School Food Punishment line 歌詞 - 歌ネット

 

そうは言っても場違いハミングバードの歌詞には冒頭から困惑させられた。前曲のCAPACITY超えるが共感しやすいシチュエーションの羅列だった分、余計にそう感じた。さっきまでの親近感はどこへやった?

直喩を示す「みたいな」が分かりやすさに1ミリも寄与していない。どこまでが比喩で何が「ジョーク」なのか。というか手術中なのか?歌っている場合か?

このように、この曲の第一印象は「意味が分からない」であった。

 

 

現在。

私がUNISON SQUARE GARDENを知ってから、過去の音源に触れ、リアルタイムで新譜やライブを追いかけるようになるまでの間、場違いハミングバードは幾度となくライブで演奏されてきた。今や、出だしの雄叫びに等しい「1,2,3,4」のカウントだけでたちまち客席が熱狂する、必殺の一曲となっている。

そして結成20周年を越え、バンドの有する音楽の手札が出そろったであろう今なら、この曲についてより深く考えることができるように思える。

本稿の目的は、アルバム「Populus Populus」発売から2025年現在に至るまでのユニゾンの音楽の拡張や変遷を踏まえて、長く難解だった「場違いハミングバード」の全容について解釈を試みること

 

 

 

 

 

 

ではない。

 

 

 

 

 

現在においても、この曲が「分からない」ということに変わりはない。

 

 

 

 

そもそも解釈を試みて答え合わせがしたいのであれば、20年以上の歴史に照らす必要さえない。10周年時点で答えはほぼ出ている。

場違いハミングバードは、2015年発売の結成10周年記念ベストアルバム「DUGOUT ACCIDENT」にも収録されているが、初回生産限定盤収録のライナーノーツ(メンバーによる楽曲解説)にて、作詞作曲Ba.田淵智也は次のように記している。

 

なんか書きたいこと色々考えたけどどれもピンとこなかった。この曲にはよくわからない力で何度となく救われてきた気がする。

 

作った本人でさえ分かっていない。言語に落とせていないのである。

 

 

そして20周年を越えた今。時が経ち、この曲について深く考える材料が増えた今もなお、この曲が提示するのは「分からない」という厳然たる主観的現実であり、人間の想像力の限界である。

 

 

それよりも重要なのは、この曲が有する、ユニゾン自身ですら「よくわからない」と称する力が、ユニゾンを幾度となく救ってきたという事実である。

つまり、この曲において本当に考えるべきは「分からなさ」そのものなのである。

 

 

故にこの文章は、場違いハミングバードの歌詞や楽曲全体の解釈を行うことを目的としない。

本稿の真の目的は、場違いハミングバードという曲を足掛かりに、この曲およびUNISON SQUARE GARDENが有する「分からなさ」について再定義するとともに、人が音楽を通して「分からない」ものに触れることの意義について考えることである。

 

 

2.音楽における「分からない」とは何か

私が場違いハミングバードを聴いて「分からない」と直感したのは、先述の通り歌詞によるところが大きい。本稿では解釈等は行わないが、まずはそこから話を進めたい。

例に挙げたのは冒頭Aメロの歌詞だが、この曲は4分48秒ずっとこの調子である。Bメロでは、

 

Hard day’s night 街は今夜も 

Hard day’s night 誰かのせいに

Hard day’s night したがるから わざとらしく首をかしげた

 

 

唐突にビートルズっぽい何かがやってくる。

youtu.be

 

続くサビでは、

 

ああ僕はまたつまらないことで 君を泣かせたりしてるの

 

いきなり自省的になる

 

脈絡もストーリーもあったものではない、とまでは言わないが、一貫したものを見つけ出すのは非常に難しいことが分かると思う。

こと音楽における歌詞は言語情報であるため、このように「言語的一貫性、整合性がない」というのは「分からない」に類する状態と言えそうである。

 

だがこれだけでは足らない。音楽を「分からない」と表現するとき、忘れてはならない観点がある。

「分かる」と「分からない」はグラデーションであり、その狭間には無数の「分かった気になっている」が存在しうるということである。

 

 

UNISON SQUARE GARDENの音楽が有する特異性について、現在に至るまで最も的確に表現したブログが存在する。

2011年に、まさにPopulus Populus発売に合わせてユニゾンの音楽を評したテキストであるが、同時に、音楽を言語の俎上に載せて分析し批評することの難しさについて、重要な指摘がなされている。

 

結局ね、スゴイ言語化しにくいタイプの音楽なんですよ。もっというと純粋に音楽的な音楽なんですよ。要するになにかの文脈に繋がるものではないので書きにくいのです。(中略)ユニゾンのようにただひたすら上手くていいバンドって日本の音楽ジャーナリズムってどう評価していいかわからないんですよ。やっぱりひきこもりのオタク青年が密室で叫んでる、これぞロック、みたいなのが書きやすいのです。社会論にすり替えられるから。音楽の話しなくて済むから。

出典:薔薇とノンフィクションと前段階武装蜂起(中身は音楽の話): kenzee観光第二レジャービル

http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-af9c.html

(注:太字は筆者による)

 

ニゾンの音楽は「純粋に音楽的な音楽」である故に、何らかの文脈に繋がらず、言語化しにくい。

場違いハミングバードからもこうした性質は読み取れる。歌詞だけに着目しても分かるように、その散逸ぶりから社会論など特定文脈への接続を見出すことは難しい。

一方で、強力な文脈が付与された音楽においては、音楽それ自体を言語化しているつもりが、文脈の話にすり替わることがあるという。

 

ある音楽を詳細に「言語化できる」ことはある程度「分かっている」ことと同じように見える。

しかし上記の指摘から示唆されるのは、我々が言語を通して音楽を理解しようとする際、しばしば音楽それ自体ではなく「文脈」、つまり背景となる情報の方を根拠とせざるを得ないことである。

 

「純粋に音楽的な音楽」であるユニゾンでさえ、文脈が全くないわけではない。Populus Populusのポスター広告や公式の商品紹介には、以下のコピーが銘打たれていた。

 

ロックバンドがPOPであることを模索し続けてきたことによる進化と深化の結晶として、ここに一つの完成型を見る!!

出典:https://www.amazon.co.jp/Populus-UNISON-SQUARE-GARDEN/dp/B004XX2BMA

 

この一文の中には複数の文脈が存在する。「ロックバンド」「POPであることを模索」「進化と深化」「完成形」と、このバンドが今どの立ち位置にいて何を志向してその結果作品がどうなったか、端的かつ広がりのある言葉で示されている。

私がPopulus Populusで初めて聴いた曲を咀嚼しようとする際、このコピーは消化酵素のような役割を果たしていた。激しい3曲目「プロトラクト・カウントダウン」とピアノが入った温かな5曲目「僕らのその先」が1枚に同居しているのは「ロックバンドがPOPであることを模索」した結果なのか、といった具合に言語化の助けになったのである。場違いハミングバードの鑑賞時にも同様に多少役立ったことは言うまでもない(それでも訳が分からなかったが)。

 

 

さて、これは音楽自体を理解していると言えるのか。

「文脈」すなわち楽曲やアーティストの背景にある知識を得たことで、全くの未知だった楽曲の中に既知の領域が生まれた。つまり音楽に対し100%未知ではなくなった、ということは言えそうである。

だがこの時点では「この曲がこうなのはロックバンドがPOPであろうとした結果だから」といった理解にとどまっている。決して間違いではないのだが、楽曲と文脈の接続がいささか直接的である。広がりのある言葉として示されているために一見ちゃんとした理解に見えてしまうが、何が「ロックバンド」でどうすれば「POP」なのか明確に規定できない限り、ただコピーを復唱しているのとそう変わりない。まさに「分かった気になっている」ような状態である。

故に、音楽自体の理解ではなく文脈の理解に過ぎないという可能性を捨てることはできない。

 

それでも、文脈のように手掛かりとなる情報が一切なければ、未知の音楽は未知のままである。

その音楽に対して何も知らない状態の人がより深い理解に至るためには、どうしても音楽の外にある情報が必要になってしまう。

Populus Populusを手に取った当時の私のように、新しい音楽を初めて聴いた人にとってはなおさらである。私のPopulus Populus収録曲への認識は、あらかじめ聴いたオリオンをなぞる・カウンターアイデンティティへの肯定的な印象の上に成り立っており、もし私がユニゾンのことを何も知らずいきなりアルバム曲を聴かされていたら同じ印象を抱いたとは言い切れない。今日まで聴き続けることもなく、さらに理解しようもとせず終わっていた可能性もある。

 

 

このように、「音楽自体の理解」「文脈の理解」の2つを厳密に区分することは極めて難しい。

言語で音楽を理解しようとするときは、音楽自体を「分かっている」つもりが「分かった気になっている」だけ、という状態に陥る恐れを常に孕んでいると言えるだろう。

これは音楽における「言語化」の限界でもある。

 

以上を踏まえると、音楽における言語的な「分からない」とは、「分かった気になっている」にも至れない状態、つまり音楽自体の情報も文脈としての情報も得られず、音楽そのものと手持ちの知識やイメージが結びつかない状態ということになる。

そして場違いハミングバードは、聴いた者にこの状態を体験させるような楽曲であると私は考えている。

この鳥は花の蜜の代わりに、私たちに「分からない」を運ぶのである。

 

 

では場違いハミングバード特有の「分からない」とは何か。

その答えは言語では捉えられない領域の中にあると思われる。だが、「何故言語では捉えられない領域が生じるか」ということについては説明する手段があり、そこから場違いハミングバードのありように近づくことはできる。

ここにおいて、「分からない」を掘り下げる上で重要になるのは「主観」である。

 

 

3.場違いハミングバードを「分からない」と感じるのは何故か

音楽を、音楽外の情報に照らして理解しようとするとき、それは前者への理解か後者か、区分は非常に難しい。よって言語化によって音楽を理解することには限界がある、という話をした。

ここにはもう一つ重要な点がある。音楽を聴く人によって、参照される音楽外の情報は異なってくるということである。客観的情報から音楽を理解しようとしても、情報の取捨選択はその人の「主観」に依存するのである。

 

 

昨今、音楽に対して歌詞やテーマの意味を「解釈」し、作者の意図を「考察」するという大きな潮流があるように思う。滅茶苦茶楽しいので私自身もユニゾンの歌詞などでよくやっているが、そのたびに「作者は~を伝えたかったのではないか」と言うことの難しさ、恐ろしさを実感している。

ある歌詞についてフィーチャーすることはしばしば別の歌詞から得られる洞察を覆い隠してしまう。説の根拠であるフレーズや、引用するインタビュー記事の選び方からは、恣意性――つまり自分自身の思い付きや主観的判断をどうしても拭い去ることができない。故に「これを『作者の意図』という答えとしていいのか」という迷いは常につきまとう。

 

 

こうした「主観」をめぐる問題について、非常にうまく説明した理論が存在する。場違いハミングバードの「分からなさ」を掘り下げることにもつながるため、ここで紹介したい。

 

動物行動学において多大な影響を与えたドイツの生物学者・哲学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルにより提唱された、「環世界」(Umwelt)である。

 

ja.wikipedia.org

 

「環世界」とは

 

書籍にこの概念が書かれたのは1934年。原本は2005年に「生物から見た世界」として日本語訳され、その際「環世界」という訳が与えられている(日本語訳は1970年の新版がベース)。

が、かなり難しい内容のため、ここでは日本における動物行動学のパイオニアにして「生物から見た世界」の訳者、日髙敏隆による解説から引用したい。

 

 

日髙はイモムシを例にとっている。イモムシは自分が乗っている葉=食べ物を重要なものとして認識しているが、それ以外の食べられない植物はイモムシにとって意味がない。同様に、ハチなどイモムシの敵はイモムシにとって重要であり、敵の翅の動きや影を命にかかわるサインと認識する。

その上で次のように述べている。

 

 そういう意味のある存在を彼らは認識できるようになっている。

 彼らの世界はほとんどこれらのものから成り立っている。たとえば、美しい花が咲いていようと、それは彼らにとっては意味がない。食物としても敵としても意味のないそのようなものは、彼らの世界の中に存在しないのである。彼らにとって大切なのは、客観的な環境といわれているようなものではなくて、彼らという主体、この場合にはイモムシが、意味を与え、構築している世界なのである。

 それが大事なのだと、ユクスキュルはいう。ユクスキュルはこの世界のことを「環世界」、ウムヴェルト(Umwelt)と呼んだ。ウムは周りの、ヴェルトは世界である。つまり、彼らの周りの世界、ただ取り囲んでいるというのではなくて、彼ら主体が意味を与えて作りあげた世界なのであるということを、ユクスキュルは主張した。

出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P39

(注:太字は筆者による) 

 

動物が意味あるものとして認識しているものは限られている。故に動物は自ら周囲にあるものに意味を与え、主体的に自分の世界を構築していると捉える。というのが「環世界」という理論だという。

 

またさらにそこから一歩踏み込んで、先述の引用は次のように続く。

 

 したがって、客観的環境というようなものは、存在しないことになる。それぞれの動物が、主体として、周りの事物に意味を与え、それによって自分たちの環世界を構築しているのである。そして、彼らにとって存在するのは、彼らのこの環世界であり、彼らにとって意味のあるのはその世界なのであるから、一般的な、客観的環境というものは存在しない。つまり、いわゆる環境というものは、主体の動物が違えばみな違った世界になるのだというのである。

出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P39-40

(注:太字は筆者による) 

 

普段人間が使う「客観的」という概念を揺るがすようなことが示されている。自分の世界は主観により意味づけられたものだけで構築されているので、環境=世界において「客観的」はありえないのだと指摘しているのだ。

引用部では「主体」とされているが、つまりその動物の「主観」を重視した考え方である。科学=「客観的」という一般的イメージとは一線を画しているが、動物行動学では動物が「何のために」「どのような仕組みで」行動しているのか理解するために、動物が何を認識し世界をどう構築していくかを考えねばならず、こうした「主体」を重視する考え方が必要だったという。

 

先に音楽を「解釈」「考察」することについて述べたが、この考え方に照らすと、私たちが音楽に向き合う上でも「主観」からはどうしても逃れられないことが分かる。我々が音楽を聴くという営為は、リスナー個人の主観により構築された「リスナー個人の世界」が「その音楽の世界」に触れることであり、「解釈」なり「考察」なりで音楽を掘り下げるとき個人の主観的認識を基にするしかないのは当然と言える。

 

 

そしてこうした「環世界」の概念を基にすると、何故「分からない」が生まれるのか一つの考えに至ることができる。

それは、異なる動物間に「世界」に対する認識の差異があるためである。

意味がないものはその動物の世界には存在しえない。また、動物によって意味のあるものは異なるため、動物が違えば世界も異なる。

自分から相手の世界を見たとき、相手の世界では意味のあるものだが自分にとっては意味のないものであるため、世界同士が結びつかず、認識できない領域が発生する。この領域は言語で捉えることもままならない故に、「分からない」の原因ということになる。

 

以上を場違いハミングバードにも当てはめ、「分からなさ」を掘り下げていきたい。

 

 

「環世界」から見た場違いハミングバードの「分からなさ」

場違いハミングバードを聴くならば、「リスナー個人の世界」が「場違いハミングバードの世界」に触れることになる。これら二つの世界の間にも、世界の違いによって認識できない領域は発生し、「分からない」も生まれる。

そして場違いハミングバードにおける根本的な「分からない」原因は、リスナーとユニゾンの「視点の違い」である。

 

音楽の提示する世界は、作り手の世界の影響下にある。音楽それ自体と、作り手の情報を含む「文脈」を完全に分けて評価することは、先述の通り非常に難しい。

場違いハミングバードも例外ではなくユニゾンの世界から派生している。「場違いハミングバードの世界」とは、作詞作曲者である田淵智也をはじめ、Vo./Gt.斎藤宏介、Dr.鈴木貴雄、3人の持つ世界の構成要素から抽出され、楽曲という形になった世界である。

我々は場違いハミングバードを聴くことを通し、ユニゾン3人の世界を垣間見ているとも言える。だが我々はユニゾンではなく、我々とユニゾンの「主観」は異なる。なので彼ら3人が認識しているのと全く同じように世界を捉えることは不可能に近く、どうしても認識には差異が生じる

 

ここでイモムシ以外にもう一つ、人間と他の動物の認識を比較した実例を挙げたい。奇しくも場違いハミングバードのタイトルに冠されている「ハミングバード」=ハチドリである。

 

2020年の以下の記事ではハチドリに関する研究が紹介されている。

www.esquire.com

人間の眼には錐体細胞と呼ばれる明るい場所で色を認識する細胞があり、人間のそれは3種類あるが鳥類や爬虫類には「紫外線を知覚できる4つ目の錐体細胞」が存在すると考えられている。

詳細は割愛するが、これにより鳥類は人間の見るいわゆる「三原色」に加えて、人間には見えない紫外線も見ることができ、人間よりも可視色の幅がはるかに広いと考えられるのだという。

そして検証のためにハチドリに白羽の矢が立った。約3年間にも及ぶ観察研究の結果、ハチドリは、「人間の眼にも見える有色光」「人間の眼にも見える有色光+紫外線」それぞれの光で照らされた2種類の給餌器を色相の違いで見分けていることが分かり、ハチドリには人間の眼には知覚できない色相を見分けられることが示されたのである。

だがそれでもハチドリの眼にこの世界がどう映っているか、人間には分からない。記事を読む限り錐体細胞の差というどうにもならない要因のためと思われるが、実際のところは今後の研究を待つしかないようである。いずれにせよ、人間と他の生物とでは認識できる領域が異なることを示す格好の事例と言えるだろう。

 

 

場違いハミングバードを聴くことによって、上記の洞察と同様の驚きを見出すことができる。ハチドリに紫外線が知覚できるように、ニゾンには我々と異なる領域が見えているのかもしれない、と思わされるのである。例え手術中にビートルズっぽい何かが乱入してきて街の有様に首を傾げたと思ったらつまらないことで君を泣かせたことを自省するという一般常識では明らかに何もかもがおかしいシチュエーションでも、ニゾンの世界では本当にそれが矛盾なく成立しているのではないかと思わされるのである。

 

 

また、場違いハミングバードを「分からない」と感じるポイントは人それぞれだろうが、私にとってのそれ、つまり歌詞に注目すると、リスナーとユニゾンの「視点の違い」はより明確になる。

場違いハミングバードには先述した歌詞の他、もう一つ、非常に象徴的で重要なワンフレーズがある。

 

 

ああ迷子のため息.com

 

 

こんな言葉はこの曲の中にしか存在しない。と言い切ってしまっていいだろう。

 

当然意味は分からないし解釈するつもりもないが、それはこのフレーズが全く新しい言葉の組み合わせ方をしており、聴いた者の持つ知識や常識に当てはめることができないからである。

「迷子」「ため息」「.com」の3つの語を歌詞として選び出し、全部合体して全く新しい言葉を生み出したことからは、ユニゾン(少なくとも作詞・田淵智也)の独自の視点、つまり「主観」、ひいては世界に対する認識が見て取れる。

我々とユニゾンは同じ人間であるが、それでもこれほど視点が異なっていることを浮き彫りにするような歌詞である。

 

 

以上をまとめると、ユニゾンが意図していたかは不明だが、場違いハミングバードにはユニゾンと聞き手の主観的認識の差異を利用し、認識できないはずの領域にある「分からなさ」を顕在化させる性質がある。先述してきた歌詞の「言語的一貫性、整合性のなさ」などはその結果表れているものと思われる。

結局のところ、この曲が運んでくるのは「分からない」という厳然たる主観的現実なのである。

 

 

 

だがそんな、作った本人たちでさえ「分からない」楽曲が、幾度となく演奏され、ライブの定番曲となり、バンドを救い、バンド結成10周年時点のハイライトとしてベストアルバムにも入るほど愛されている。

今日もUNISON SQUARE GARDENのファンの間では、場違いハミングバードを始め、容易に理解し得ない難解な歌詞の熱を帯びた解釈が飛び交っている。

これらの現象からは「分からない」が必ずしも否定的な概念でないことが示唆される。そしてこれはユニゾンの言う、場違いハミングバードが有するような「よくわからない力」の賜物である。

では「よくわからない力」とは何なのか。そもそも何故これほど「分からない」楽曲に皆が魅了され、触れようとするのか。

 

 

その答えは非常にシンプルだと思う。楽曲を通して他者の世界を知ることに喜びを感じているからである。

「あなたには、世界はどう見えているんだろう」*4という疑問に答えを出したいからである。

そして「よくわからない力」とは、聴いた者に「知りたい」と思わせ、行動させる力だと思う。

 

youtu.be

 

 

4.「あなたには、世界はどう見えているんだろう」

 

先に引用した日髙敏隆は、自身のエッセイの中で、小学校の頃に動物行動学を志した原点を以下のように語っている。

 

 あるとき、枝をいっしょうけんめいはっている芋虫に思わず話しかけたことがある。

「おまえどこに行くの?何を探しているの?」

 芋虫は答えなかったけど、ぼくにとって、それは大切な原点だったかもしれない。

 必死ではっている。はうのは筋肉を使っているからだ。そういう話では何もわからない。

 少なくともいきものには、なぜその行動をするのか、目的があるはずだ。それを問わなければ何も始まらないではないか。

出典:『世界を、こんなふうに見てごらん』日髙敏隆 2013 集英社 P13

(注:太字は筆者による) 

 

 

私たちがUNISON SQUARE GARDENの音楽を聴くとき、これと全く同じ衝動に動かされている気がしてならない。

対象が芋虫か音楽かという違いがあるだけで、問うているのは同じような疑問である。どこへ行くのか。何を探しているのか。

それを知るべく、動物行動学でひたすら虫や動物を観察するように、我々は幾度も再生ボタンを押す。ときにはそれに飽き足らず歌詞をこねくり回し、インタビュー記事、ブログ、SNSの発言まで持ち出そうとする。

やがて音楽への疑問は、音楽を通して垣間見える作り手たち、ロックバンドへの疑問へすり替わっていく。「その音楽の世界」と「作り手たちの世界」の境界は融解する。それを突き詰めていくと作り手――「あなた」の見ている世界はどうなっているか、という疑問に至るのだ。

 

日髙は「環世界」の概念、動物にとっての環境を「あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なもの」とする考えを拡張し、「イリュージョン」という概念を提唱している。

 

 それはある種の錯覚であるともいえる。けれどそれは必ずしもつねに「思いちがい」であるわけではないし、客観的事実と一致しない、誤った知覚であるとは限らない。

 きわめて俗っぽくいえば、それはある意味での色眼鏡かもしれない。しかし、たとえば動物と人間における色眼鏡と呼んだりすると、かなり限定された印象を与えることになろう。

 そのようなことをいろいろと考えた末、ぼくはそれをイリュージョン(illusion)と呼ぶことにした。

出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P16-17

(注:太字は筆者による) 

 

人間も人間以外の動物もイリュージョンなしに世界を認知し構築し得ないという。加えて、人間以外のイリュージョンは知覚の枠によって限定されるようだが、人間の場合はその枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できるという。

先に挙げた例で言えば、ハチドリは紫外線を見ることができるが、人間には見えない。だが人間は科学により紫外線が存在することを知っているし、その上で対策として日焼け止めを作り出し、UVカットできるよう服飾を進化させてもいる。実態として知覚できないものを「ある」ものとして扱う様はまさに「イリュージョン」という言葉が当てはまる。

そして人間がイリュージョンを構築する動機について、日髙は次のように総括している。

 

それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、それによって新しい世界が開けたように思う。それは新鮮な喜びなのである。人間はこういうことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだ。それに経済的価値があろうとなかろうと、人間が心身ともに元気で生きていくためには、こういう喜びが不可欠なのである。

出典:『動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない』日髙敏隆 2007 筑摩書房 P195

(注:太字は筆者による) 

 

 

この結論は、音楽に対しあれこれ探究する人々の在り方と合致している。つまり私達は音楽体験を通し、新しい世界が開ける喜びを感じているということになる。

音楽体験を「環世界」の概念に照らせば、「リスナー個人の世界」が「その音楽の世界」に触れることであり、「その音楽の世界」を通して「作り手の世界」を垣間見るという仕組みが浮き上がる。

音楽もイリュージョンの上に構築された世界であり、そこから見える作り手――他者もまたイリュージョンである。

だが他者の世界は自分にとって間違いなく新しい世界だ。例えイリュージョンであっても。

場違いハミングバードは、視点の違い、世界の違いから生じる「分からなさ」を提示することで、聴いた人の「知りたい」衝動を喚起し、新しい世界へ触れさせる音楽なのである。

 

音楽を聴く動機や語る対象が作り手個人に集中していくことには賛否もある。先述の通り、それは音楽自体について語っていると言えるのかという問題もある。

だが場違いハミングバードに関しては、ライブで演奏されるたび磨きのかかる定番曲となり、ユニゾン自身をも「よくわからない力」で幾度となく救った。楽曲を通し、「あなた」の、ユニゾンの世界を知りたいと思わせる魅力あってのものであろう。

場違いハミングバードに触れた人々の数多の「主観」が、この曲をユニゾンごと新たな場所へ押し上げたのである。

それはきっと、良いことだったのではないか。

 

そして、ユニゾンの言う「よくわからない力」とは、「あなた」の見ている世界への疑問から検証へ向かわせる力、聴いた人に音楽に対する深い掘り下げを誘発する力ではないかと考えられる。

誰しも、疑問を感じたとしても、熱量が伴わなかったため検証せず終わったことがあるはずだ。音楽に置き換えれば、そもそも純粋にいいと思える曲でなければわざわざ「解釈」だとか「考察」へ向かうような熱量は発生しえないのである。

我々とユニゾンの世界の狭間の、「言語では捉えられない領域」。そこから私たちに「いい」と思わせて行動したくなるような熱量を生む力。それが「よくわからない力」と言えるのではないか。

 

当然この熱量は極めて主観的なものである。ここまで引き合いに出してきた「環世界」のようにエビデンスを提示して理論で説明を試みるのは野暮であろう。

ただ間違いなく言語では説明しきれない領域である。音楽で言えば「歌詞」というより「音」の領域に近いだろう。

いつか、ここを的確に表現するための言葉が、ユニゾンの楽曲に対する「解釈」「考察」の中から発明されることを楽しみにしたい。

いやもしかしたら既にあるのかもしれない。何故ならこの熱量に覚えがある方はたくさんいるはずだからである。そんな言葉をもし知っている方がいたら是非教えていただけるととても嬉しい。

 

 

 

何度も言うようだが、私には場違いハミングバードの歌詞の意味どころか、その全体像はやはり「分からない」。だが一部のフレーズからは、「あなた」の世界を知ろうとする我々の在り方との相似が見てとれる。

例えばこのフレーズは、ひょっとしたら、私の世界と場違いハミングバードの世界が奇跡的に重なり合った領域なのかもしれない。

この鳥が迷わず飛んでいくのに感化され、私も、「あなた」の見ている世界を知りたいと願う。

 

 

場違いなハミングバードでも 帰れるおうちがあるから

迷わず行くよ 君の所まで

 

 

私たちが「分からない」に触れるとき。他者の構築する世界に手を伸ばすとき。

この曲は「よくわからない力」をもって、世界を拡張する後押しをするだろう。

試みの中で傷つくことがあっても、”場違いなハミングバードにも帰れるおうちがあるから”安心して手を伸ばせるはずだ。

我々にもまた、”帰れるおうち”はある。あるいはこの曲自体がそうかもしれない。

 

 

 

今日のところはこれくらい 外しちゃおうかな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と語ってはきたが。

 

 

ここまでの内容全て、結局は「私から見た」場違いハミングバードであり、主観的産物に過ぎない。

私の場違いハミングバードとあなたの場違いハミングバードは、きっと違う。

だから、分かった気にならず、これまでのことは一旦全て忘れ、何も考えずただ再生ボタンを押してみていただきたい。

UNISON SQUARE GARDENというロックバンドの楽曲、いや、あらゆる文脈を排せば、ただの4分48秒の音声情報が流れるだけである。

 

 

 

そこから、あなたの世界に棲む、あなただけの場違いハミングバードを見つけ出せることを願っている。

 

あなただけのイリュージョンをもって。

 

 

 

 

誰かの真似じゃない、自由自在のサンプリングをもって。

 

 

 

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(2025/6/13追記)

 

 

 

 

企画「Populus Populus Prologue」全曲セットリスト(全記事一覧)はこちら。(2025/7/6追記)

summerday.hatenablog.com

 

 

 

 

 

アルバム「Populus Populus」14周年、おめでとうございます!!

 

 

🦢🦢🦢

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ロックンロールモデル・イズ・アライヴーUNISON SQUARE GARDEN “ROCK BAND is fun”から見た、人が生きるということー

  • この文章は2024年7月24日に日本武道館で開催されたUNISON SQUARE GARDEN 20th Anniversary LIVE “ROCK BAND is fun”を題材に、ライブで表現されたものとその意味の解釈、今後の展望について、筆者の体験と感想を踏まえてまとめたものです。
  • 実際のライブの流れに即して説明していますが、「ライブレポート」とは性質が異なります。ご了承ください。
  • 文章の性質上、楽曲への言及がサウンド面ではなく歌詞の解釈に偏重しています。
  • あまりにも文章が長くなっているため先に要旨を示します。以下の通りです。

 

<ユニゾンの音楽と生き方>

  • UNISON SQUARE GARDENは「楽しさ」を追求し、独自のスタンスと施策を展開してきた
  • だが20周年ライブでは、楽しいことだけでなく「楽しくなかったこと」も含めた音楽人生全体を表現した

<ライブの構成と意味>

  • 「正しくない」と「多面性」をキーワードに、楽曲に隠された側面を明らかにした
  • 「自分が面白いと思ったものがウケない」という問題を中心に据え、それでも自分たちのスタンスを貫いた結果どうなったかを提示した

<20年間の結論と今後>

  • 「世界は別に変わらなかった」が、ファンの存在が活動継続の原動力となり、「ロックバンドをあきらめないでよかった」という結論に至った
  • このライブを通して表現されたものは人生の総合評価であり、「ロックバンドは、やっぱり楽しい」という言葉に集約された
  • リスナーがユニゾンの音楽から得た感情を外の世界にフィードバックすることで、本当に世界に変化を起こす可能性がある

 

※本記事はNotionで下書きをしており、上記の要旨はNotion AIにより作成後筆者が手直しを加えたものです。そのため実際の記事全てを反映しているわけではありません。ご了承ください。

 

※2024/10/7追記:一部改行と誤字の修正、リンクと画像の追加を行いました。

※2024/11/2追記:リンクの追加、表記ゆれと一部改行の修正を行いました。また一部文章が誤っていた箇所を追記修正しました。なお本記事の趣旨に変更はございません。

※2024/12/26追記:最後の画像追加を行いました。

※2025/1/11追記:UNISON SQUARE GARDENのメンバーブログ更新に関する方針が変更となったため、関連する内容を一部追記修正しました。

 

 

 

はじめに

 

それでも、やはりぼくはスネークと出会ってよかったと思っている。なぜなら、スネークと戦う日々のなかで、ぼくは人間が生きるということの意味を教えられたからだ。人が生きてゆくことで、他者のなかにその人生を刻み付けることの意味を知ったからだ。

出典:『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット(角川文庫)』伊藤計劃 2010 KADOKAWA P520

 

 

ずっと、人が生きるということの意味を考えていた。

 

 

これは、闘病していた親族が亡くなった日に買って読んだ本の一節である。

前から読みたいと思ってはいたが手が出ず、報せを聞いて間もなく、何故か「読むなら今しかない」と強く突き動かされ、買いに走ったことを覚えている。

 

私にとっては、一度だけ夏休みの宿題を手伝ってくれた程度の、そこそこ良いおじさん。

一方で、自分の家庭においては、良い父親と言えなかった人間。

そんな歪な多面性を持った人が、生きて、病に苦しみ、命を閉じた。

その事実を一人では処理しきれず、無意識のうちに何かの助けを求めたからこそ、あの日私は古本屋に走ったのだと思う。

 

私にとって彼が生きた事実は何だったのか、未だ答えは出ていない。

 

 

子供の頃から、どうしようもない時、つらい時には音楽が助けになってくれた。

時に曖昧の彼方へ問題を追いやることで自我が潰れるのを防ぎ、時に自我を増大させることで虚勢であっても問題の重さに耐えられる力をくれ、また時に途方もないヴィジョンを見せることで矮小な自我を自覚させ、諦めさせてもくれる。

だがいつからか、その力には限界があると感じるようになった。

 

私にはまだまだ未熟な点が数多くあるが、曲がりなりにも歳を重ねある程度経験を積んだことにより、「どうしようもない問題」への解像度は妙に上がった。これまで見えなかった問題の構成要素が徐々に分かるにつれ、ちゃんと考えてちゃんと策を打てる大人でさえどうにもならないことがあるという虚しい事実が顕在化していった。

あのおじさんの葬儀には、遺族を除く親族が私含め片手で足りるほどしか来なかった。その背景に数えきれない因果があっただろうことを、今は理解できる。

音楽が得意とするであろう「曖昧な領域」の中だけで自身の問題を考えることには無理が生じていたのだ。音楽が根本的解決にならないことは、ままある。

 

その実感が年々増していくにつれ、曲に対してだけだった音楽への関心が、作っている人間の方へ拡張していった。

つまり、どういう人たちが、どういう背景から、どういう考えのもと、どういうプロセスで曲を作り、活動をしているかについて興味を持つようになったのだ。やがて、アーティストの公式HPにあるブログやSNSでの発信を見る、Webにあるリリースインタビューを探して読む、ひいてはWikipediaにある「略歴」といった項目を精読する、といった行動につながった。

音楽単体から得られる情報は、様々な音声情報・文字情報の連なりとそれらが喚起する自分の感情といった「曖昧な領域」の情報であった。逆に作り手から得られる情報は、「その人たちが『音楽を作る』という営為を通し、どう選択し行動しているか」という、もう少し具体的な領域の、生き方に通ずる情報であった。

人が生きるということを考えるならば、実際に生きている人から学ぶのが一番確実だ。

いつの間にか、好きな音楽を作る人たちは、人生のロールモデルになった。

 

 

 

2024年7月24日。

私が好きな音楽を作り続け、生き方においてもひとつの指標であったスリーピースロックバンドが、結成20周年を迎えた当日、日本武道館公演を敢行した。

音楽が好きな自分にとっては、初めて聴いてから10年以上好きな音楽と、それを生み出した人たちを盛大に祝える二度とない機会。とても楽しみで胸を躍らせながらも、彼らの人生の歩み(のごく一部)を見てきた「生き方が好きな自分」の方は、今日、20年間音楽を作り続けバンドをやり続けた結論が出てしまうかもしれないという重みに、厳粛な気持ちを抱かざるをえなかった。

もしかしたら、人が生きるということの意味までも、今日分かってしまうかもしれない。

そして、この日彼らが出した結論に、私はとてつもない衝撃を受けた。

 

 

“世界は別に変わらなかった”

 

 

 

長くなったが本題に入ろう。

UNISON SQUARE GARDEN 20th Anniversary LIVE “ROCK BAND is fun” についての話である。

彼らが人生の中の約20年でやり続けてきたことを辿りつつ、その結論として上記の言葉が放たれた事実を通し、人が生きるということとは何なのか、考えてみたい。

 

なぜUNISON SQUARE GARDENロールモデルたりえたのか

 

私が何故UNISON SQUARE GARDEN(ユニゾン)の音楽を好きであるかは、実際に観て聴いていただくのが最も早いためここでは割愛する。

 

youtu.be


では何故UNISON SQUARE GARDENの「生き方」にまで惹かれたのか。

曲そのものと演奏する佇まいが私の眼に本当にカッコ良く映ったことは間違いないが、それはあくまで入り口である。より正確に説明するには彼らが行った試みと発信に触れる必要がある。

 

 

アーティスト、バンドが、発表する音楽とは別に、自身のスタンスを表明し発信することは決して珍しくない。

UNISON SQUARE GARDENの発信が他より突出しているのは、その詳細さである。

 

大きな決定があった際には公式HPからニュースリリースが出るだけでなく、主にバンドの司令塔たるBa.田淵智也がメンバーブログを更新する。

2025年以降は基本的に公式ファンクラブサイトのみで更新されているが、2024年までのブログは公式HP内で誰でも見ることができ、それまでのバンドの歩みと、活動におけるステートメントが記されている。

2015年7月24日、結成10周年記念にして史上初の日本武道館公演を開催するという嬉しい報せや、逆に史上最大の危機であった、2014年のVo.Gt.斎藤宏介ポリープ摘出手術の報せ。こうした重大なトピックスならばメンバーが何かを言うのは当然であり、詳細に説明するのも自然と言えるが、ユニゾンは発信する事柄の粒度がさらに高い。

 

 

例えば、公式ファンクラブ「UNICITY」開設に際しては、「金払えないやつとか、入会という行為自体に遠慮がある音楽好きが何で差別されなければいけないのか。」と、ファンクラブの性質に対する苦手意識があったことを正直に表明しつつ、それでも公式ファンクラブだからこそできる「チケットの最速先行と入手の確実性」というメリットをできるだけファンに提供したいという考えを、当時バンドが抱えていた課題を踏まえて詳しく説明している。

 

自分たちが楽しくて活動し続けて来て、全国にこんなろくでもないバンドのライブを観たいと思ってる物好きが増えてきた。

ありがたいことなのだが、色々な弊害も出てくる。ライブを観たいやつに確実に観せてやることが難しくなるケースが起こる事態が増えてきた。

特に自分の家の近くの公演を観せてやれないこと。これが悔しい。

じゃあキャパでかくすればいいじゃんと言われるかもしれない。だが公演を切る時に適切なキャパシティを想定してツアーに組み込むというのは意外と難しいのだ。蓋開けてガラガラすぎても色々な意味で厳しい。

 

(中略)

 

何度か言ってるが「観たいやつに1ツアー1回は観せてやりたい」という想いが根本にある。

現状のシステムでは観れなかった人がどれだけいるのか、どうしても把握できない。

同時に、チケット獲得の確率が一人一人でどれだけ差があるのかも把握できない。

 

(中略)

 

この現状のシステムでどうにもできない問題を解決する仕組みとして、「チケットの最速先行と確実性」が僕が思いつく最良の選択肢だったので、この条件に繋がった。

出典:BLOG | UNISON SQUARE GARDEN - official web site 『小生田淵がよく喋る2015年5月』 https://unison-s-g.com/blog/?page=3&category=tabuchi

 

できれば全文読んでいただきたいのだが、基本的には嬉しいお知らせであり「ファンの要望があったから」といった一言で済ませても問題はない内容についても、しっかり言葉を尽くしていることが分かる。

 

 

ブログではしばしばこうした葛藤、より正確には、難しい判断プロセスの中で落し所を見つけるまでの過程が詳細に書かれている。

「自分たちの方針とはこの点が反しているが、他にもこうした要因があることから、総合的に判断して今回こういう選択をしました」と、ファンへの詳細な説明を行うのである。

ファンクラブの例からも垣間見えるような「あえて大きい会場でやらない」「人気があることが全てじゃない」とも映るスタンスが私の中の逆張り精神をくすぐったことは否定できない。だが明確に自分たちの方針を表明し、時にそこから外れる選択を求められた際に、意思決定のプロセスまで含めて言葉を尽くす姿はとても誠実に映った。

 

 

そして彼らの活動方針、バンドの根幹にあるのは、「楽しさ」を希求する精神である。

これがあらゆる意思決定と、誠実な説明として表れている。

2017年から2018年をまたぐツアー中の2018年元旦、突如3週間後に7thアルバム「MODE MOOD MODE」を発売する旨を発表した時などは、次のように経緯を説明している。

 

・バンドは全国ツアー中であり、そのツアー中に更なる情報が出るとそっちに興味が行ってしまうやつがいるのが嫌なので、解禁は出来る限り送らせたかった。

・発売日があらかじめ1月24日に決まっており、なかなか動かせないらしい。ツアー中にリリースすることに関しては本意でなかったので何度か意見交換をしたが、これは色々は事情があるので納得し飲み込んで着地した。

 

(中略)

 

・初回限定盤に最新ツアーの映像がまるまる入ったらめちゃかっこいいだろうという理由からスタッフ全員の素晴らしい協力もあってツアー半ばである11月の公演を収録することができた(ファイナルみたいな大きい場所でのライブ映像を形に残すのは現時点はあんまり本意じゃないというのもある)

・発売日の事情によりライブ映像の曲順は事前には出さない事を決めた(CDのブックレットには記載しなければということになったので、買う人は気を付けて欲しい)

・じゃあアルバムの曲目も当日まで発表しないというのはどうだろうかとふと思いたった。

 

・総じてなんか楽しそう

 

色々書いたが、すなわち「楽しそう」というのが結果的な理由である。

出典:BLOG | UNISON SQUARE GARDEN - official web site 『小生田淵がよく喋る2018年1月』 https://unison-s-g.com/blog/?page=2&category=tabuchi

 

自分たちも、ファンも楽しそうな方向へ舵を切る姿勢が表れている。というより楽しみな気持ちを抑えられていない。

同時に、様々な制約がある中でプロモーションを決定した旨がやはりしっかり書かれている。結果としてファンの驚きと期待に繋がっており、この時の施策を含めてMODE MOOD MODEを「最高傑作」と称する人は多い。実に巧みな采配だったと思う。

 

 

 

 

ニゾンの音楽だけでなくメンバーブログやインタビューまで目を通すようになったのは高校~学生時代の間だが、まだ子供の自分にとって彼らの掲げる「楽しさ」はとても魅力的だった。同時に、「楽しさ」に対するしっかりした信念を持ち、実現に向け深く思考し具体的な行動に移せる大人の存在が頼もしかった。

 

このような姿勢に私は惹かれ、次第に「彼らならどうするだろう」という、自分にとっての指針に繋がっていった。

今思えば、初めて音楽の作り手に対しロールモデルである」と捉えたのがUNISON SQUARE GARDENだったかもしれない。

 

 

彼らの根幹にあろう精神を一言で示すと、次のようになる。

 

 

“ロックバンドは、楽しい。”

 

 

1stアルバム「UNISON SQUARE GARDEN」CD帯に書かれた言葉であり、その英訳“ROCK BAND is fun.”が今回の日本武道館公演のタイトルである。

 

 

UNISON SQUARE GARDEN

UNISON SQUARE GARDEN

Amazon

 

 

だがここで注意すべき点がある。”ロックバンドは、楽しい。”の精神に基づく施策の全てが必ずしも上手くいった訳ではないことだ。

ニゾンからの発信を見る限り、長い音楽活動の中で、自分たちの当初の思い通りに行かなかったであろうこと、つまり「楽しくない」ことも確かに存在していた。

 

ニゾンにとっての「楽しくなかったこと」とは何か

 

私がユニゾンの活動における困難の存在を知ったのは、2015年発売の10周年記念盤「DUGOUT ACCIDENT」特典ブックレットに掲載されたインタビューであった。

 

 

 

 

これは「シングルを一切含まない」という画期的なベストアルバムであり、私は「シングル以外のライブ定番曲集」の側面があると捉えている。

本作の曲は今なお「必殺技」のようにライブの要所で繰り出されており、ライブの様子を知りたい初心者にも大変おすすめの一枚だ。

そんな作品の特典として10年の歩みを振り返るロングインタビューがあるわけだが、メンバー間あるいはメンバーとスタッフ間不和の時期、いわゆる「闇期」について語られていたり、「楽曲制作が難航しDr.鈴木貴雄までもが作曲に挑戦した」「詞に問題があるのではと思われて作詞家をつける話が出た」といった初出しのエピソードに大層驚かされた。これらの問題は「オリオンをなぞる」のスマッシュヒットにより徐々に好転していったそうだが、あの曲はまさに転換点だったのだなと思う。

 

こうしたエピソードの中で、楽曲制作の主幹である田淵に着目すると、浮かび上がってくる問題があった。一言で要約すると、

 

「自分が面白いと思ったものがウケない」

 

ということである。

 

 

書けた時、田淵は「俺、すごい天才!」と思い、自信をもって新曲として演奏した時は、バンド全員が確実にシングルに決まったと思ったそうだが、スタッフ陣にはそれが伝わらなかった4thアルバム収録「シャンデリア・ワルツ」。

これを筆頭に、ウケると信じて送り出した楽曲がユニゾンにとっての然るべき位置に置かれないという事例がしばしばあった。それが悔しいから、ライブでやり続けることで良くなることを狙っていたのだという(おそらく楽曲の完成度も、スタッフへのウケも)。本作はこうした楽曲の救済措置の役割を含んでいる。ライブ定番曲の側面があると述べたのはこのためである。

 

youtu.be


その数年後においても自他評価のギャップは継続していたようだ。

2018年の14thシングル「春が来てぼくら」もそんな曲だったという。ミドルテンポかつ暖かな歌詞とメロディでありながら、信じられないほどの転調が繰り返される曲である。

本作が収録された2020年の8thアルバム「Patrick Vegee」受注生産限定盤のインタビューによると「音楽業界全員が土下座しに来るぞ」と思うレベルの自信作だったそうだ。

 

 

 

 

この曲はTVアニメ「3月のライオン」OPのために描き下ろされており、あくまでひとつの指標ではあるが、オリコンチャート最高順位は週間5位だったという。*1 

なので人気はもちろん知名度も一定以上はあるのだが、おそらくユニゾンが狙っていたのはシーンや市場へのインパクトの方であり、その点では確かにウケなかったのだろう。例えばこの曲に影響を受け、同じ方法論で作られた後発の曲が雨後の筍のように現れる、という現象があったのかと言われれば、口をつぐまざるを得ない。

 

youtu.be

 

上記の2曲が出た時、私はただただ喜んでいただけだったが、その裏にある作り手の苦労は表に出ている面しか知り得なかった。よって、彼らが制作していた時どんな気持ちだったかも完全には分からない。

ただ、自分が面白いと思ったことが「自分の思った通りに」伝わらない状況。これが「楽しくない」のは想像に難くない。

 

 

 

そしてこれは、今回の日本武道館公演の意味を考える上で、欠かすことのできない点である。

 

 

後述するが、「シャンデリア・ワルツ」「春が来てぼくら」は今回セットリストの重要な位置に入っていた。ただのライブの「必殺技」としてではなく、これらの曲の、ひいてはユニゾンの歩みの中で生まれた、割り切れない想いを孕んだものとしてである。

“ロックバンドは、楽しい。”=“ROCK BAND is fun.”

“fun”を、「楽しい」を掲げた記念すべきライブでありながら、私が観たライブは、溢れる高揚感と多幸感に混じって、彼らロックバンドが体験してきたであろう「楽しくない」面もちらつくような構成となっていたのだ。

 

 

ただ「楽しい」を忠実に実行するなら、客席が気づかないレベルまで「楽しくない」要素を排してもよかったはずだ。それでも自分たちの精神を逸脱するようなことはなかったのではないか。

では何故そうしなかったか。

それは今回ライブで表現された“fun”、「楽しい」が、一時の感情ではなく、人生を総体で捉えた時の総合評価であるからだと、私は考えている。

 

ROCK BAND is fun”とはどういうライブだったのか

 

今回の20周年、日本武道館公演初日“ROCK BAND is fun”セットリストは以下の通りである。

 

  1. Catch up, latency

  2. サンポサキマイライフ

  3. Dizzy Trickster

  4. fake town baby

  5. 恋する惑星

  6. Hatch I need

  7. マーメイドスキャンダラス

  8. Invisible Sensation

  9. オリオンをなぞる

  10. もう君に会えない

  11. スカースデイル

  12. オトノバ中間試験

  13. 世界はファンシー

  14. フルカラープログラム

  15. いつかの少年

  16. 101回目のプロローグ

  17. kaleido proud fiesta

  18. スロウカーヴは打てない(that made me crazy)

  19. Phantom Joke

  20. 天国と地獄

  21. 君の瞳に恋してない

  22. カオスが極まる

  23. シュガーソングとビターステップ

  24. 春が来てぼくら

  25. シャンデリア・ワルツ

  26. センチメンタルピリオド

出典:UNISON SQUARE GARDEN結成20周年武道館ライブ、観客と共有したロックバンドの幸せの形(ライブレポート / 写真10枚) - 音楽ナタリー https://natalie.mu/music/news/584025#NA_article_sub_h2_1

 

 

このセットリストのもと、人生の総合評価としての”fun”=「楽しい」がどう表現されたか。

キーワードは「正しくない」「多面性」である。これらの観点から、いくつかの楽曲を見ていきたい。

 

「正しくない」ということ

 

実は1曲目の時点で、このライブがこれから何を表現しようとしているのか既に示されている。

 

youtu.be

 

「Catch up, latency」2018年発売13thシングルにしてTVアニメ「風が強く吹いている」OP。

今回はライブ特有のアレンジとして、最後のフレーズの独唱から始めることで、ライブの開幕を宣言する形となっていた。

 

敬具、結んでくれ 僕たちが正しくなくても

01. Catch up, latency  出典:https://www.uta-net.com/song/258299/

 

この曲がシングルCDとして発売された時の帯には、以下の言葉が書かれている。

 

 

“ロックバンドは、正しくない。”

 

 

1stアルバム帯のセルフオマージュであり、バンドが掲げる信念の別側面である。

 

 

 

この言葉がライブのひとつ目の核となっており、セットリストの大半は「正しくない」という観点で貫かれていると考えられる。

 

ニゾンの楽曲からは、「神様」に象徴される、規範・常識・正しさといった概念への疑いの目がしばしば見て取れる。特に「神様」には当たりが強いとされ、TVアニメ「ソウルイーターリピートショー」OP「カウンターアイデンティティ」の元々のタイトルは「神に背く」だったというエピソードもある。

その視点が具体的なバンドの施策に落とし込まれると、先述したような「あえて大きい会場でやらない」「人気があることが全てじゃない」といったスタンスを取っているように見えるのである。

 

今回の歌詞でいえば、

 

全知全能の神様も知ったもんか

つける足跡が最良のアンサー

02.サンポサキマイライフ  出典:https://www.uta-net.com/song/78834/

 

ああみんなが大好きな物語の中じゃ呼吸がしづらいんだね

03.Dizzy Trickster  出典:https://www.uta-net.com/song/243086/

 

神様はいない いても 要らない

ここは誰の現在地だ?

甘いか苦いかは君が決めろよ

04.fake town baby  出典:https://www.uta-net.com/song/239594/

 

なんて不調だ オーバーワークの現代

まるでサラマンダー 溶けて瓦解していく正義

解答例はどっち 決めかねるそばから

ゴングがパラダイス 左からジャブ右からフック

12.オトノバ中間試験  出典:https://www.uta-net.com/song/210566/

 

某日 彼が偉そうな態度で筆記問題を見舞った

しかし二次関数などマジチョロい 歴代将軍とかもマジチョロい

一丸っていうのは ただ丸くすることなんだっけ?

ロックンロールの方がゴツゴツしておいしそうだな

13.世界はファンシー  出典:https://www.uta-net.com/song/291611/

 

といった具合である。

 

「サンポサキマイライフ」「fake town baby」は特に直接的であるが、間接的に正しさへの疑いを表現する曲も多い。

「Dizzy Trickster」では「多数派に馴染めない」≒みんなが共有している規範に乗ることができない状況を「物語」になぞらえ、そこを打破して自分の力で走らんとする様を描いている。

btaim-polerground.hatenablog.com

 

「オトノバ中間試験」ではタイトル通り「試験」を全体のモチーフとしながら、時代の中で崩れ行く「正義」についていきなり歌われる。「世界はファンシー」では明確な回答のある「筆記問題」を余裕しゃくしゃくで解く様から「ひとつの塊になる」という意の「一丸」に対する疑念へつながり、その反証として「ロックンロール」の概念が導かれる。

加えてこれらの曲は、奇天烈でユーモラスな言葉遊びの中に、不意に核心を突く言葉が差し込まれるという、ユニゾンの得意とする歌詞の構成が共通している。

 

 

そしていずれの曲においても、「正しくない」という在り方が痛快で楽しいものに映る。

 

 

「Catch up, latency」発売当時の私は、原点回帰を思わせる帯を見て胸を躍らせるとともに、敢えて「正しい」方向にいかないバンドの姿勢であると解釈し、いつもながら痛快だと感じていた。

 

当時の認識もおそらく間違いではなかった。

だが今回ライブが進むにつれ、「正しくない」には別の、より切実な側面があったのだと思い知らされていくことになった。

「楽しくない」という面である。

 

 

それをはっきり理解したのは、10曲目「もう君に会えない」だった。

 

彼女が消えちゃった日 僕は空にいて どこかですれ違ってたはずなのに

あいにくその時僕は君のことを 考えてなかった

 

(中略)

 

彼がいなくなった日 僕は海にいて

口よりも目が忙しかったから

あの犬のキャラクターのTシャツを見て君がよぎったんだよ

10.もう君に会えない  出典:https://www.uta-net.com/song/335755/

 

 

2023年9thアルバム「Ninth Peel」収録。ユニゾンの曲の中で数少ない、実在のモデルがいると明言されている楽曲である。

別れや喪失、ひいては死を想起させる歌詞の全体像と、そのディテールから、ユニゾンと親交のあった既にこの世にいない2人のアーティストに向けられた歌と思われている。

「Ninth Peel」発売直前の施策として、収録楽曲になぞらえたクイズ企画があった際、「もう君に会えない」では「この曲の歌詞にはモデルがいるか」という問題が出題され、「もしモデルが本当にいて、推測通りの人物(たち)であったとすれば、特定個人の死をクイズという形で扱うことに倫理的問題はないのか」といった観点により物議を醸した曲でもある。

 

近しい人物の死に対する認識、特にその事実や遺された側の心情をどのような形で知ってもらうかというのは、故人との関係性などによって大きく異なり、部外者が安直にジャッジしてはならないセンシティブな問題であると考えているため、ここでは施策の是非について言及するつもりはない。

いずれにせよ「もう君に会えない」は、「楽しい」を掲げたライブにふさわしいかといえば、正しくはなく楽しくもないであろう、パーソナルで切実な楽曲ということだ。

そんな曲を20周年の場で演奏したのである。

 

 

この時点で、今回のライブでは、20年の歴史の負の側面、「楽しくなかったこと」についてもちゃんと総括するのだと直感した。

これを踏まえると、続く11曲目、2010年の4thシングル「スカースデイル」も同じ要因から選ばれたのではないかと思えてくる。

今となっては根強い人気を誇る名曲だが、先述の「闇期」にバンドが暗中模索していた時、田淵ではなくVo.Gt.斎藤が初めて作詞作曲したシングルである。「DUGOUT ACCIDENT」特典ブックレットによれば、シングル表題曲を決める際、田淵は自分の提示した候補曲が表題に決定すると最後まで確信していたが、結局「スカースデイル」に決定した、という「自分が面白いと思ったものがウケない」を裏付けるエピソードもある。

 

同時にこのあたりで、“ロックバンドは、正しくない。”が「楽しくない」をも内包している可能性に気付いたのである。

 

 

では何故「正しくない」≒「楽しくない」を示す必要があったか。

おそらく20年の音楽人生「全て」を表現し切るためには絶対に避けられなかったからである。

そしてその方法は、これまで見逃されてきた「楽曲の多面性」を明らかにすることで、「人生の多面性」を表現するというものだった。

「多面性」が今回のライブふたつ目の核である。

 

「人生の多面性」を「楽曲の多面性」で表現すること

 

ロックバンドの音楽活動20年、集大成としてのライブなのだから、「人生の振り返り」のような性質を帯びるのはまあ当然のことではある。

ともすれば「辛いこともあったけどなんだかんだ言って今ハッピー」といった粒度の低いまとめ方をされやすいということでもある。

その表現は今回のライブでも間違いではない。間違いではないが、本質の全てを説明できているとは言い難い。重要なのはその過程と、彼らは今を肯定できたのだな、と観客が実感できることである。

故に辛いこと、「楽しくないこと」は切実な言葉で、音楽で語る必要があった。

15曲目、「いつかの少年」もその役目を担っている。

 

 

ニゾン3人の少年時代。いつかの鈴木・田淵・斎藤少年がそれぞれ「黒夢を崇拝する少年」「ブルーハーツを崇拝する少年」パチスロを崇拝するパチンカス」だったというエピソードが斎藤によるMCで語られたのち披露されたこの曲は、前段のMCの大ウケとは比べ物にならないほど、静かで、孤独で、幼子が誰にも気づかれず独り泣いているかのような寂寥感を持っている。

 

無残なくらいに散りばめられた

水彩画みたいな瓦礫の山

その一つに僕を置き換えてみた

15.いつかの少年  出典:https://www.uta-net.com/song/78829/

 

歌い出しからこれである。その自己評価に哀しくなるほどだ。

2009年発表の1stアルバム「UNISON SQUARE GARDEN」9曲目として、アルバムの流れの中で初めてこの曲を聴いたのだが、明らかに異質で不思議な曲だと感じていた。

歌詞の寂寥感は明らかにユニゾンのパブリックイメージと異なる。かと言って、どんな明るいアーティストにも数曲はあるパーソナルな苦悩を表現した曲と捉えるには、あまりに曲調があっけらかんとしている。曲調と歌詞のマッチ度合いなら先述の「もう君に会えない」の方が納得がいく。

その違和感にひとつの形を与えたのが今回のライブだった。特に重要なのは1番のサビである。

 

これが物語のひとつならば 僕は今何処の道の上

少なくともエンディングましてやクライマックスでは ないことならわかってるけど

ノートに書いた文字の一つ一つが ふわふわり飛んで雲の上

また無駄になってる 無駄になってる

間違ってないはずなのに

 

自分が今何処にいるのか、この時点での立ち位置を確認している。そして「ノートに書いた文字」、すなわち自身の表現が、「ふわふわり飛んで雲の上」と、うまく形を成していないことが見て取れる。

「間違ってないはずなのに」。自らの「正しくなさ」を実感していないと出ない言葉である。

この曲もまた、先述の「正しくない」≒「楽しくない」の図式に該当するものだった。

 

 

以上からこの曲には、人生のある時期における「これで良かったのか」という迷いが含まれている。

恐るべきは、今回のライブにおいては「正しくない」という文脈に沿うことで、ユニゾンの音楽人生全体における重要なピースとして機能していることだ。

「正しくない」≒「楽しくない」という観点に基づいて歌詞を見ると、先述したユニゾンの「楽しくなかったこと」、「自分が面白いと思ったものがウケない」という苦悩と重なる。

これまで存在しなかった、いや、存在していたが気づくことのなかった楽曲の側面に急に光が当てられたように思える。

 

 

さらに続く16曲目にて私は、このライブを通して、ユニゾンは音楽人生「全て」を表現しようとしているのだと確信した。

8thアルバム「Patrick Vegee」最終曲「101回目のプロローグ」である。

 

 

数え切れぬ星たちを通過してきたよ 歯がゆいことだっていっぱいあったよ

間違っていないはずなのに 迷子みたい 情けないな

16.101回目のプロローグ  出典:https://www.uta-net.com/song/291608/

 

「いつかの少年」時点の「エピローグ」でも「クライマックス」でもない、という自己の立ち位置の認識が、そのまま「プロローグ」に繋がっている。

「いつかの少年」との違いは、今この時点ではなく、人生をより長いスパンで見てそこに至るまでの出来事を振り返っていることだ。だが想いは変わっていない。「間違っていないはずなのに」

 

前提として、2020年発売の「Patrick Vegee」に収録されたこの曲は、来たるべき4年後の20周年を見据えた「前振り」だと捉えられていた節がある。最大の要因は次の歌詞にある。

 

本当の気持ちを話すのは 4年くらいは後にするよ

 

具体的な時期と、そこで何らかの「本当の気持ち」が語られるという予告がなされている。故に、私が見た限りではほとんどのファンが20周年で絶対にこの曲が演奏されると予想していた。

多くの人の中に「ユニゾンにとって重要な曲である」という共通認識があったであろうこの曲が、「人生の振り返り」の観点から、「いつかの少年」という思いもよらない楽曲と見事に合致するとは、私にとって驚くほかなかった。これも、楽曲同士の相互作用によって新たな側面が見出された驚きである。

 

そしてこの驚きは、ずっと昔からユニゾンの曲が一貫したものを有していたことへの驚きでもある。「楽しい」も「楽しくない」も、昔からちゃんと在ったのだ。この感情を想起させるような楽曲の連なりが、ユニゾンが歩んだ20年の重みに、実感と説得力を与えているのである。

 

 

 

さて「101回目のプロローグ」は、先だっての予想にたがわず、20周年当日において「本当の気持ち」、すなわち約20年にわたる音楽人生の結論を導くという位置づけだった。

予想を超えたのはその演出である。今回、先述の歌詞が次のように変更された。

 

 

本当の気持ちを話すのは 今日くらいしかありえないだろう

 

 

この言葉を前振りとして「101回目のプロローグ」の演奏を終え、メンバー全員のMCを挟んだ後、ドラムソロとセッションを含む7曲を一気に畳みかけ、会場の興奮と感慨が最高潮に達したところで、田淵が「本当の気持ち」を語り、最後にUNISON SQUARE GARDENにとって大切な3曲を演奏して終わる。

これが日本武道館公演“ROCK BAND is fun”の構成である。

では「本当の気持ち」とは何か。いよいよ彼らの出した人生の結論に触れたい。

 

ニゾン20周年の結論、「本当の気持ち」とはなんだったのか

 

「101回目のプロローグ」に人生の重みが込められていることについて述べてきたが、この曲はただ辛いだけの曲というわけではない。全体としては希望とも絶望ともとれる。

来るべき4年後に「本当の気持ちを話す」ことをほのめかすだけではなく、それまでどう生きていくかにも触れられている。

 

そうやって鼓動を待つことにしたよ

ちゃんと幸せになる準備もしてるよ

 

さらには、その先にある希望を見ているともとれるフレーズがある。

 

世界は七色になる!

 

「七色」。モノクロではないフルカラー。ユニゾンの歌詞に頻出するワードである。

メジャーデビュー以前より代表曲である、今回の14曲目「フルカラープログラム」において、

 

そうだ

涙キラキラ西の空に光る

モノクロでは説明できない完全無欠のロックンロールを

どうせなら、この際なら 虹を作ってみよう

そしたら誰も文句なんかつけらんないから

14.フルカラープログラム  出典:https://www.uta-net.com/song/78825/

 

という歌詞があり、ユニゾンの目指す「ロックンロール」ひいては「ロックバンド」のスタンス全体を象徴する内容となっている。他の曲で「七色」や「虹色」という言葉が使われる時は、「フルカラープログラム」と同じものが希望のニュアンスを伴って想起される。

 

 

そんな希望とも絶望ともとれる「101回目のプロローグ」後の17曲目は、

 

 

かくしてまたストーリーは始まる

17.kaleido proud fiesta  出典:https://www.uta-net.com/song/317221/

 

 

17thシングルにして「TIGER & BUNNY2」OP「 kaleido proud fiesta」であった。

オリオンをなぞる」誕生のきっかけになった「TIGER & BUNNY」シリーズ10年ぶりの続編主題歌の開幕を告げる言葉を、「4年くらいは後」つまりこの日のための「プロローグ」を先へ進める言葉に変えたのである。この曲全体が歌い出しにたがわず希望にあふれていることは言うまでもない。

 

youtu.be

 

ここまで散々セットリストの中に「楽しくなかったこと」を見出し、ユニゾンがどんな結論を出すのか恐ろしくなっていた自分にとっては、「助かった」という気持ちだった。私の考えは杞憂であり、最終的に彼らは希望的な結論を出したのかもしれない。ひょっとしたら、このライブが終わって外に出たら、本当に世界が七色になっているかもしれない。

だが最後まで見届けなくては分からない。果たして彼らの出した答えは希望か、絶望か。

そういった緊張感の中、7曲にわたる怒涛の演奏を終え、田淵が口を開いたのだ。

 

 

 

僕たちには才能があった。

 

けど才能で、信念で、渾身の1曲で、世界は別に変わらなかった。

 

20年間、信じる音楽をやり続けられたのは才能があったからだけど、それでもやっぱり世界が変わらなかったのはつまらなかった。

楽しいことばっかじゃないからさ。ロックバンド続けるのってやっぱり大変なのよ。

 

だからときにそれはロックバンドをあきらめてもいい理由になった。

ときには前を向けなくて、誰にも気づかれないように後ろを向いた。

 

そうしたら君がいた。

 

「ついて来てくれ」とは思ってなかったけど、ずっと見ていてくれることがこんなにうれしいことだと思っていなかった。

君が好きなロックバンドは君がずっと好きでいてくれたからここまで来れた。

 

ロックバンドをあきらめなくてよかった、ありがとう。

出典:UNISON SQUARE GARDEN結成20周年武道館ライブ、観客と共有したロックバンドの幸せの形(ライブレポート / 写真10枚) - 音楽ナタリー https://natalie.mu/music/news/584025#NA_article_main_h2_4

(注:改行と一部文末の句点は筆者による)

 

これが田淵智也から語られた「本当の気持ち」。20年にわたる音楽人生の結論だった。

 

 

 

客席でこの言葉を聴いた時、様々な気持ちが去来して本当に大変だったことを覚えている。

 

先述の「自分が面白いと思ったものがウケない」という問題がこのライブのキーになっている可能性にはこの時初めて気づいた。

かねてから半ば自嘲気味にインタビューやブログやライナーノーツで語っていたのを知っていたが、ここまで切実なものとは思いもしなかった。

 

ロックバンドの掲げる「正しくない」は「楽しくない」でもあったのだとこの時はっきり確信した。

私がロールモデルと捉えていたユニゾンは、「楽しさ」に対する信念のもと深く思考し具体的な行動に移せる存在で、それが逆張り精神をくすぐるような独自のスタンスと施策に現れており、要は「孤高」であり、自立しているように見えていた。そんな彼らが他者の、「君」の存在の大切さに言及した。これまでの楽曲やスタンスの細かな変化からそういった側面もあると分かっていたが、ここまで大きいものとは思いもしなかった。

 

とにかくこの言葉は希望/絶望という尺度で割り切れなかった。簡単に咀嚼できるものではなかったのだ。

結論としては「よかった、ありがとう」。だがここに至る気持ちの全体像は、両価的で、多面的だったのである。

これが「人生の総合評価としての」“fun”である。

 

世界は変わらなかった。心底面白いと信じていたものがウケなかった。

楽しいことばかりではなかった。自らの正しくなさを知ってしまった。友達も見送らなければいけなかった。

だがロックバンドをあきらめなくてよかった。かつて想定していたものとは違う「君」、つまり我々という要因が「よかった」という言葉を導いた。

今回の曲の中で、一見とびきり多幸感に満ちているような5曲目「恋する惑星」の一節が、極めて切実なものに思えてくる。

 

僕の周回軌道に意味なんか無くても

一緒に存在できるのなら 解析でもなんでもしてくれ

05.恋する惑星  出典:https://www.uta-net.com/song/335759/

 

田淵の言葉からは、叶わなかった想いがあったことと、それとは別方向の価値あるものを手にしたこと、両方を感じ取ることができた。

いつも読んでいたブログと同じように、難しい判断プロセスの中で落し所を見つけた結果がこれなのだと分かった。

なんだかんだ言ってハッピー、なんて生易しいものではない。そこに至る過程全ての重さが乗った言葉だった。

 

 

もちろんこの言葉に質量が乗っているのは、ライブ全体がこの言葉の力を最大化するために緊密に構成されていたからであり、その構成は20年間積み重ねたものがあったから実現できたのである。

ここに至って私は、ユニゾンがしばしば人生論のようなものを表現してきたことを思い出していた。当然今回の楽曲からも読み取ることができる。

 

絶対とかないよ そんなきれいごと聞けるならここまで生きれてないんだよな

違和感とかは微塵も感じないんだよ

07.マーメイドスキャンダラス  出典:https://www.uta-net.com/song/291615/

 

どうしても消えないままの 残酷時計は

真実を指してるから 厳しくも見えるだろう

だけどいつか 誇れるくらいには 人生はよくできてる

だから、生きてほしい!

08.Invisible Sensation  出典:https://www.uta-net.com/song/239225/

 

何度よろけて 倒れたとしても

さっき立ってたんだし 立てないわけがないよ

09.オリオンをなぞる  出典:https://www.uta-net.com/song/112591/

 

張り切れるだけ張り切っちゃったならほどほどにしてテイクミーアウト!

これ切羽詰まっても理です 我が身腐らせてなるものか

18.スロウカーヴは打てない(that made me crazy)  出典:https://www.uta-net.com/song/291614/

 

「このままがいい」だとか「生きたい」も願うだけじゃダメってこと

大切なフレーズをこぼすな 物語がゴミになる

19.Phantom Joke  出典:https://www.uta-net.com/song/275519/

 

君の瞳に恋なんてしてはないけどわかる

大事なもの失った時 壊れちゃってしまってしまった気持ちは

虹色に光る幸せ そんなものがなくても

小さじ一杯のカラクリが生み出せるものもあるよ

21.君の瞳に恋してない  出典:https://www.uta-net.com/song/243079/

 

人生の厳しさを示した上で、その先にどうするかを描いているように見える言葉たちだ。

時に私たちに向けて語りかけるような表現になっているが、田淵の言葉を経た後では、全て自分にも言い聞かせていたかのように思えてくる。

いずれも(特に近年では)ライブを要所で彩ってきた楽曲であり、歴史と実績がある。これらの曲ほとんど全てに視点の切り替えというコペルニクス的転回が起こったことにより、「いつかの少年」の意味合いが変わった時と同様、「本当の気持ち」に凄まじい驚きと説得力が生まれたのだ。

これほどの質量がある言葉に、この先出会うことがあるだろうか。

 

 

そして彼らは言葉だけでなく、行動でも音楽人生の結論を示した。これまでメンバーブログ等で語られた様々な施策と同じように。

最後のMCを終えて演奏されたのは、「自分が面白いと思ったものがウケない」問題の象徴であった「春が来てぼくら」「シャンデリア・ワルツ」だったのである。

 

間違ってないはずの未来へ向かう

24.春が来てぼくら  出典:https://www.uta-net.com/song/245229/

 

「正しくなさ」を想起させ、常に人生の迷いとして立ちはだかった「間違ってないはず」。「春が来てぼくら」ではその言葉が、向かうべき対象である「未来」にかかったのである。

 

ここで今回の22曲目、「カオスが極まる」の一節が頭をよぎった。TVアニメ「ブルーロック」OPにしてユニゾン最新のヒット曲。何から何まで「春が来てぼくら」と対極に思えるが、ある一点において2曲はリンクしていると直感したのだ。

「『正しくない』かもしれない道を敢えて進む」という点である。

 

画すべき一線を越えろ 楽園は近い

22.カオスが極まる  出典:https://www.uta-net.com/song/326437/

 

これらは、決意表明ととれる。

そして「春が来てぼくら」のシングルCD帯には、次のように書かれていた。

 

 

“ざまみろ、これは僕らの歌だ。”

 

 

UNISON SQUARE GARDENの歌として、真に完成した瞬間がこの時だったといえよう。

 

 

 

続く「シャンデリア・ワルツ」の名フレーズも、

 

行き着いた先に 何も無くても

息をする僕らは構わない 世界が始まる音がする

25.シャンデリア・ワルツ  出典:https://www.uta-net.com/song/141409/

 

「未来」へ向かった先を示しているように聴こえる。

 

かつては「ウケなかった」(とユニゾンが思っていた)楽曲たち。だが、ここまでの道のりと、今回のライブの構成から示唆される意図を考えれば、これまでとは全く違って聴こえることは明白だろう。

ありとあらゆる面から「正しくない」を貫いてきた結果としての20周年当日、締めくくりとして披露される「正しくない」楽曲たち。

「僕たちはこう生きた/こう生きる」という表明なのだと思わずにはいられない。

 

以上を結論とし、最後に1stシングル「センチメンタルピリオド」をもって、文字通りライブにピリオドを打ち、ユニゾンの20年間の集大成は幕を閉じたのである。

 

そしてひとつずつを踏みしめてるそのスタイルはどうでしょう

まるで使い古した暫定状態それも別に悪くねぇよ、バイバイ

26.センチメンタルピリオド  出典:https://www.uta-net.com/song/78826/

 

youtu.be

 

 

なお、先に“ROCK BAND is fun.”は"ロックバンドは、楽しい。”の英訳であると述べたが、それとは別に、今回のライブにはこんなキャッチコピーがあった。

 

 

“ロックバンドは、やっぱり楽しい。”

 

 

1stアルバムCD帯の、2度目のセルフオマージュとして示されたのは、長いキャリア、人生の中で、苦しいことも辛いことも確かにあって、それら全て踏まえた上での「やっぱり楽しい」

看板に偽りなし。このライブで提示された、「人生の総合評価としての」“fun”を包括する言葉として、これ以上ふさわしいものはないだろう。

 

 

UNISON SQUARE GARDENから見えた、人が生きることとは何か

 

360度全方位全席を開放し、限界まで人で埋まった日本武道館

ステージ真後ろに位置する注釈付き指定席。

そこから見えた、3人の、途方も無く大きな背中。

 

 

私の観た、UNISON SQUARE GARDEN 20th Anniversary LIVE “ROCK BAND is fun”は、3人の人生全てが込められたような時間だった。

20年間、3人の集まりが、確固たる信念のもとひとつのことをやり通した過程と結果、つまり生き様を刻み付ける時間だった。

私が憧れ、指針のひとつとしてきた人たちが、どう生きてきて、どう生きていくのかを、文字通りその背中で示した時間だった。

 

 

「正しくない」ということと、「多面性」を想起させるライブ、そしてそれらが導いた、簡単に咀嚼できるはずのない20年間の結論。

 

これらを生で浴びせられたライブを終えて思い出したのが、どういう訳か冒頭で触れた私の親族のおじさんだったのである。

おそらく私が経験してきた事柄の中で、最も人間の複雑さや生と死といったものを実感したエピソードだったからだろう。言うまでもなくユニゾンの3人とおじさんは何もかもが別人だが、私の中では「人間の多面性」という点で結びついたのである。

故に今回のライブについて考えることは、私にとって人が生きるということを考えることに等しくなったのだ。

 

 

では私は今回のライブから、3人の生き様から何を受け取ったのか。

ロールモデルであり、生き方の指標のひとつである彼らの、人生の結実を見た私はどう生きればいいのだろうか。

2024年7月24日以来未だ考え続けているが、わずかながら、見えてきたものがいくつかある。

 

複雑性から逃げないこと

 

ひとつは「複雑性から逃げない」ことである。

 

このライブで表現されたものを無粋を承知で一言で示すなら、何度も言うようだが「人生」になってしまうだろう。

だが「○○は人生」という表現がカジュアルに氾濫する一方、言葉通りの意味で「人生」を音楽に、あるいは一公演分のライブに落とし込むことは並大抵ではない。

20年間やり通してきた証としてのライブを構成するために、どれほどの思考と蓄積が必要だったと予想されるかは、ここまで書いてきた通りである。

その上で出した結論さえ多面的で複雑な心境を孕んでいたのである。

これはもう、生きることそのものが複雑性と切り離せないのだと捉えるのが適切なのだろう。

 

 

実はセットリストの中に、唯一「正しくない」「多面性」だけで歌詞について解釈することが困難な曲がある。20曲目「天国と地獄」である。

 

天国と地獄を数えろ 退屈に殺される前に

揺るがない条件と確かな理由を挙げて ご回答召しませ

20.天国と地獄  出典:https://www.uta-net.com/song/169157/

 

youtu.be

 

そのまま「人生の」天国と地獄と考えられるかもしれないが、それにしては歌詞も曲も演奏もやりたい放題であり、一貫したものを見つけ出すのはとても難しい。この曲の歌詞に関しては、最悪、大したことをほとんど考えていない可能性もあるのではないかと思わされる。

そのためこの曲についてはかなり無理やりだが、歌詞に限らず全体の在り方として、人生の複雑性を示しているのだと私は考えている。一言「人生」といっても実際は容易に読み取ることのできないものなのだと思う。

 

さらに「人生」を表現する難しさについて考える時、ユニゾンがしばしば語っていたことを思い出す。

ライブの楽しみ方、ノリ方についてである。

ニゾン、特に田淵が為そうとしていたことのひとつに、「ライブにおける一体感至上主義の破壊」があった。

 

どこかの指定席の公演だっただろうか。初めて来たであろう女の子が目に入った。

もちろん我々は徹頭徹尾放っておくわけだが、彼女は周りを見ながらノリ方を探しているようだった。

そして手拍子してるのを見つけると「ここ?ここなんだね?」とばかりに追随し始める。

 

今世の中を見渡せばそういう風に「みんなと一緒になって応援すること」とか「ステージの人の呼びかけに答える事」とかがすっかり一般的になった

それ自体に問題があるわけじゃない。そればかり目に付くのは、個人的には問題だと思うけど。

あくまで数あるスタイルの一つにすぎないのだ。

長い時間をかけて、こちらステージ側はやりすぎたのだと思う。それが文化となり、追随するステージ側とオーディエンス側、どちらも後を絶たないまま続いていって、正直戻れそうもない。

 

でも、だから続けなきゃいけない。僕の好きなロックバンドにそういうものは必要ない。

一緒に手あげなきゃ、一緒に手拍子しなきゃ、一緒に歌わなきゃ。そういうルールはない。必要がないのだ。

誤解が無くなればいいと思いながら、続けていこうと思う。

 

一体感求められるからライブ行かない。煽られると居心地悪いからライブ行かない。

そうやってライブから離れていった人、いっぱいいると思うんです。

そういう人に居場所を作ろうとか考えてるわけじゃないけど、一人で自分の音楽を楽しむためにライブ体験というものを受け取って欲しいのだ。

先の女の子もそうだ。我々は一丸となったみんなの相手をしてるんじゃない。君の相手をしているのだ。

隣を気にする必要もないし、ステージを見ずに友達と顔を見合わせてる場合じゃない。事件はステージで起き続けているのだ。

ステージから目を逸らさなければ、それだけのものを返せるつもりではいるよ。

出典:BLOG | UNISON SQUARE GARDEN - official web site 「小生田淵がよく喋る2014年12月」 https://unison-s-g.com/blog/?page=3&category=tabuchi

 

一緒に手を挙げる、手拍子する、歌うといったライブでの楽しみ方があるが、ユニゾンはそれと別のアプローチを試みている。

これはかなり以前からメンバーブログ等で頻繁に言及されているトピックである。

 

私がライブというものに行き始める前に、ブログでこの主張を読んだ時、非常に優しい、というかありがたいと感じた。まさにこうした一体感が要求される集団行動全般が苦手だったからである。

ライブがどんなものか漠然としか分かっていなかったが、少なくともいずれユニゾンのライブに行く時は、過度に心配せず気楽に行けば良いと分かったことが、ユニゾンに限らずライブそのものへのハードルを下げてくれた節があり、感謝している。

 

 

ではユニゾンは20年を経て「ライブにおける一体感至上主義の破壊」を成し遂げられたのか?

メンバーからの明確な答えは出ていないが、今も模索の最中なのだろうと思う。

 

私が大昔に見た大昔のライブ映像では斎藤が曲中に客席を煽っていた記憶があるが、色々試行錯誤があったのだろう、現在においてはそんなことは全くなくなった。

さらに、一体感至上主義と異なるライブの在り方を突き詰めた結果、現在のユニゾンのライブでは、MCをほとんど挟まず、歌と演奏、セットリストの構成と曲同士の繋ぎだけで熱狂を生んでいる。アンコールがあれば焦らさずすぐ応え、1.5~2時間以内でスパッと終わらせるという徹底ぶりで、音楽それ自体の楽しみを純化させた、抜身の刀身のようなライブとなっている。

そんな状況下ではステージと一緒に手拍子したり歌ったりするにはなかなか余裕がなく難易度は高い。その分ステージ上の目まぐるしい展開に集中して目を向けられるとも言える。

こうしたライブの変遷から、今も理想のライブ体験を目指す試みは続いているように見える。

 

 

ただ、これを解決可能な課題と捉えることにはいささか無理があるのではないかと考えられる。

厳密な検証がほぼ不可能だからである。

 

実際にユニゾンのライブを観られるようになって分かったことだが、周囲の客席を見渡すと手を挙げている人が大多数である。

私が見た限りでは手を挙げず身体全体を揺らして楽しむ人もいるし、座席ありライブでは座ってじっくり聴いている人もいるし、そんな人たちが責められるような悪い空気はほとんど感じられない。皆ライブに夢中になって気にしていないだけの可能性もあるが、それはそれで「一体感」を気にせず楽しめているということなのだろう。

だが全体の動きとしては、どうしても同じように見えてしまう。一体感至上主義の逆を行くはずが、結果として別の一体感につながっているというジレンマが存在するのだ。

そしてこれも実際にユニゾンのライブを体験して分かったことだが、手を挙げるのは、楽しい。

この楽しさを否定することはとてもできない。

 

要するに、客席にいる人たちの「一体感」ある動きは、自由意志によるものなのか、周りに合わせてやっていることなのか、判断のしようがないのである。

より細分化すると、自分では本当に楽しいと思っているが「手を挙げる」以外の表現を知らない、自分にとって一番やりやすくて楽しいのが「手を挙げる」である、といった人も考えられるし、逆に周りに合わせているうちに本当に楽しくなってきて自由意思で「手を挙げる」ようになる人だって想定される。

会場に集うひとりひとりにそれぞれ異なる内実や心情があるはずだ。だが動きという面にフォーカスされると、ひとりひとりの内面は覆い隠されてしまう。

 

今回の23曲目、TVアニメ「血界戦線」EDにしてユニゾン史上最大のヒット曲、「シュガーソングとビターステップ」の一節を彷彿とさせる状態だ。

 

祭囃子のその後で 昂ったままの人 泣き出してしまう人

多分同じだろう でも言葉にしようものなら稚拙が極まれり

23.シュガーソングとビターステップ  出典:https://www.uta-net.com/song/186190/

 

youtu.be

 

 

そのため、この問題は現在「解決可能な課題」としてではなく、「こんなバンドがいたっていいじゃないか」という「ロマン」の領域として模索が続いていると想像される。

 

 

大げさかもしれないが、以上のことから示唆されるのは、「あらゆる自己表現活動は自己の全てを表現しえない」という可能性である。

それが身体活動であれ音楽であれ、表現単体を見るだけでは、その主体が何を考えているかを100%知ることは極めて難しい。表現として表出される過程でどうしてもスポイルされてしまうものが存在する。

 

それを知ってか知らずか、表現する側にいるユニゾンは今回のライブにおいて、20年の歴史に存在した普段スポイルされやすい側面を、できる限り取りこぼさず拾い上げようとしていたように見える。

「もう君に会えない」「いつかの少年」がセットリスト入りしたことはその象徴とも思える。「こういう側面を見ないで分かった気になってんじゃねえよ」と言わんばかりである。

まさしく今回の6曲目「Hatch I need」のようである。この曲が「101回目のプロローグ」を収録した「Patrick Vegee」1曲目を飾っていたことは今考えると非常に示唆的である。

 

判断待って待って まだあらすじは終わってない

切り取り方にも難があるだろう

散々ぱら端折って 行儀良く侮ってんじゃねえよ

私を 私を 私を 私を

06.Hatch I need  出典:https://www.uta-net.com/song/291616/

 

それ故、観た人に人生そのものを想起させるほどの質量があるライブになっていたのだ。

 

 

翻って私自身に置き換えると、あのおじさんから垣間見えた多面性を受け容れられなかったという経験が浮かぶ。

私の夏休みの宿題を嬉々として手伝ってくれたのも、実は自分の家では良い父親ではなかったらしいのも、同じ人物の話だという事実である。

だが今回ライブを通して、「どちらもひっくるめて人の生だろう」と言われているような気がしたのだ。

だから今の私は、その複雑さをきちんと正視しなければ、という気持ちになっている。

注意すべきは、彼を良い悪いでジャッジするのではなく、どちらもあるものとして受け止めることなのだろう。UNISON SQUARE GARDENでさえ「正しくない」を抱えていたのだから。

 

そして、「私から見たおじさん」の中にも、スポイルされたものが確実にあるはずだ。

 

今回ユニゾンは、自身の歴史のスポイルされやすい側面を取りこぼさないようにしていたと述べたが、それでも拾いきれなかったものが確かにある。

今回セットリストから外れた曲に関して、「正しくない」という観点に照らして考えるといくつかは理由を推測できる。

例えば2ndシングル「マスターボリューム」は終盤の歌詞に「何が正しくて、何が間違っているのか 全部わかんないが、問題ない」*2 とあるが、20年の過程で「正しくない」ことが分かってしまったので外れてしまったと考えられる。他には3rdアルバム「Populus Populus」のアルバム曲一連は、1曲目から「世界が変わる夢を見た」*3 という歌詞で始まるが、MCで「世界は別に変わらなかった」と断じられてしまったことから分かる通り、今回の趣旨からは外れている。

だが「101回目のプロローグ」と同様「4年くらいは後」*4 という重要な時期を示す歌詞を含む「10% roll, 10% romance」や、「現実なんてこんなもんだ」*5と現実 に対する開き直りを描き人生の厳しさを示唆する「23:25」、歴史の中でも重要であるはずの「闇期」に生まれた2ndアルバム「JET CO.」の楽曲たちなどはあってもおかしくないのに含まれていない。

 

 

同様に、私が見たおじさんは、私の見えない無数の事柄の上に成り立っていたのだと思う。

私がおじさんに対して有していた視点は「親族」「父親」「夏休みの宿題」くらいなものだった。

地理的な問題や、子供だった自分があまり関心を持たなかったことから、彼と会う機会は少なかったが、それでも私はもっと知るべきだったのだろう。彼がどんな人物でどう生きてきたか。

本当は彼から直接昔話でも聞けたらよかったのだが、既に彼はこの世にいない。

だがせめて、今自分が出会っている人々、これから出会うかもしれない人々に対しては、自分に見えている側面だけが全てではないことを念頭に置きたい。過度な詮索は避けるべきだが、ちゃんと相手の背景に思いを馳せ、慮ることができるようになりたいと思う。

 

 

 

私にとっておじさんが生きた事実は何だったのか、未だ答えは出ていない。不用意に出すべきでもないのだと思う。

だがこれから私が人と関わる中で、彼の存在は頭のどこかに確実に在るだろう。

おじさんの死に際して読んでいた本の一節は、次のように続く。

 

人間が生きているのは、どんなかたちであれ他の人間に記憶してもらうためだ。人は死ぬ。でも死は敗北ではない。ぼくもスネークもこれからなんだ。仮にその名前が喪われても、その人が成し遂げたことの意味は、こだまのように人から人へと伝わってゆく。

だから、ぼくは楽しかった思い出も辛い記憶もひっくるめて、すべてを忘れ去る気はさらさらない。

出典:『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット(角川文庫)』伊藤計劃 2010 KADOKAWA P520

 

 

「本当に」世界を変えるためには

 

もうひとつ、「問い」の形として、頭に残っていることがある。

ニゾンは本当に世界を変えられなかったのか?ということである。

 

私が憧れ続けた3人が、人生のひとつの結論として「世界は別に変わらなかった」と断言したことは、やはりショックだった。

このライブの感想、特に田淵の最後のMCへの反応を見ると、「それでもひとりひとりの世界=自分自身を変えられたから良い」という趣旨のものがちらほらあった。

決して間違いではなく、私自身もあてはまっているのだが、それだけで本当にいいのだろうかとも思う。ユニゾンが当初目指していたのは「自分自身=リスナー自身」という内的な世界だけでなく、「J-POP」や「業界」といった、現実の、外的な世界を変えることであったはずだ。

 

いっそのこと、今からでも本当に世界を変えることができないか。ユニゾンが当初目指していたことを何とか実現できないかと、どうしても考えてしまう。

 

 

だが今回のライブに、ひとつヒントがあった。鈴木貴雄のMCである。

 

熱と循環の話をさせてください。

 

スタジオで何日もドラムを叩いていると『なんのためにやってるんだろう』と迷うこともある。

それでも熱を持ってやってると皆さんが喜んでくれて、謎の行動にも意味が出て生きる意味になって。熱を燃やしてくべた焚き火が皆さんを温めて火を付けて、その皆さんがまた焚き火に入ってくれる。

 

その循環が自分がここにいる意味です。

 

5年前(2019年に行われた結成15周年ライブ)では『ドラムは器でしかない』とネガティブに聞こえるかもしれないことを言っちゃったけど、5年経ち成長しまして。

このバンドがカッコいいのは俺のおかげだ!と、そう自然と本気で思えるようになりました。

 

それぞれの小さな炎に生かされて、超優秀な焚き火として燃え続けることを約束します。

出典:UNISON SQUARE GARDEN結成20周年武道館ライブ、観客と共有したロックバンドの幸せの形(ライブレポート / 写真10枚) - 音楽ナタリー https://natalie.mu/music/news/584025#NA_article_main_h2_3

(注:改行と一部文末の句点は筆者による)

 

これに加え、鈴木はオーディエンス(リスナー)のことを「薪」と表現した。

ステージとオーディエンス=燃える炎とその燃料。以前似た例えを聞いたことがあるのだが、ステージとオーディエンスが互いに共鳴しあう、理想的な関係性を的確に表している。

 

www.amazon.co.jp

 

cinema.revuestarlight.com

 

 

私が漠然とだが考えたのは、ニゾンとリスナーの間で生まれた「焚き火」を、外の世界にも拡げ、より大きな炎にできないか、ということである。

 

ニゾンの曲を聴いたり、ライブに行くことで持ち帰った感情を、実際の行動として、外の世界にフィードバックできないか、ということである。

 

それらが積み重なった結果、外の世界に何らかの変化が起きたのなら、それはユニゾンが「本当に」世界を変えたと言っていいのではないか。

 

 

それは例えば人にユニゾンの曲を聴かせるといったことではない(私としては全人類に聴いてほしいが)。ユニゾンにやたらお金をつぎ込むことでも、ましてユニゾンのやった通りに行動するといったことでもない。

感情はあくまで原動力であり、行動の例は枚挙にいとまがない。ユニゾンのように音楽を作ることかもしれないし、こうした文章や絵、ハンドメイド作品、立体造形物かもしれない。あるいは日々の仕事や家事に取り組むことかもしれないし、ひょっとしたら余韻を嚙み締め家で寝ているだけでも該当してしまうかもしれない。「生きること」全般が当てはまると言ってしまってもいいかもしれない。

 

そしてユニゾンから得られる感情の最たるものは「楽しさ」である。

 

 

そんな大きな炎が世界へ拡がったのなら。

良識や理性、他者への思いやりを持つことは当然大前提であるが、こんな行動をたくさんの人が起こし、外界への影響が蓄積されていったのなら。

おそらく結果として、各々の自由意思に基づき、各々の楽しさを独自に表現する、ユニゾンが理想とするライブ体験に近い世界になるのではないか。

 

 

 

これは極めて漠然とした「ロマン」の領域にある概念だと思う。

今の私に「これが良い生き方である」なんて具体的かつ傲慢なことは口が裂けても言えない。

ひとまず今の時点では、この文章が、誰かにとっての「薪」や「燃料」になれていること、そしてそれが外側の世界に良い影響を与えてくれることを願うばかりである。

 

 

 

***

 

 

ライブを終え外に出ても、本当に「世界が七色になる」なんてことは当然なかった。

だがライブの前と後で、何かが確実に変わったことは事実だった。

それは人に対する見方であったり、世界に向き合っていく姿勢であったかもしれない。

彼らのように生き方を結論付ける次元にはまだまだ程遠いが、おぼろげだった私自身は以前よりマシな形を成しているのかもしれない。

七色ではない世界をそれでも自力で往きたいと思えるくらいには。

 

 

この日見た景色と、受け取ったもの全てを礎に、今再びちゃんと生きてみたい、と強く思う。

そして、楽しいことも辛いことも自らで刻む歩みの過程で、3人のような素晴らしい人たちと、忘れられないようなひとときと、再びすれ違えることを楽しみにしたい。

 

 

もしかしたらそんな時間は、そう遠くないうち訪れるかもしれない。

 

 

本日、今、この時もなお。人生は続いている。

私にとっても。彼らにとっても。

 

 

 

 

 

youtu.be

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トリックスターは語らない【MODE MOOD MODE SENTENCE】

前説:この文章について

この文章は、ナツ(@unfinisheddaisy)さんによる企画「MODE MOOD MODE SENTENCE」へ寄稿したものです。
内容としては、2023年1月24日で発売5周年を迎えるUNISON SQUARE GARDENの7thフルアルバム「MODE MOOD MODE」の1曲について、自由な方法で文章化したものとなっております。
企画の詳細は下記記事を参照いただくか、Twitterにて#MMM_SENTENCE を検索ください。

summerday.hatenablog.com

 

さだくにと申します。
お誘いをいただき、初めてUNISON SQUARE GARDENについての文章を執筆いたしました。

UNISON SQUARE GARDENについては既に、文章、ハンドメイド作品、あるいは音楽と、本当に多くの方が方法を問わず想いを表現しています。
もはや立ち入る余地はないと感じていたところ、以前寄稿した他媒体他アーティストへの文章に目を留めていただき、今回筆を執ることにつながりました。
UNISON SQUARE GARDENについての文章化は門外漢であるにもかかわらず、貴重な機会をいただけたこと、心より感謝いたします。

この文章は企画のオーダーに応えることを目標としていますが、それとは別に「筆者が属する別のファンコミュニティのような、UNISON SQUARE GARDENをよく知らない方にも届いてほしい」という個人的な願いがあります(あくまで個人的な)。
そのためUNISON SQUARE GARDEN、およびMODE MOOD MODEの基礎的な情報等を省略せず記述しており、文章が非常に長くなっております。
何卒ご了承ください。


よろしければご一読いただき、その結果、お手持ちのCDプレイヤー、サブスクリプションサービス等音楽媒体の再生ボタンを押していただけるなら、これに勝る喜びはありません。
よろしくお願いいたします。


それでは、本題に移ります。

 

🦒                                      🦒                                      🦒

 

 

セットアップ:アルバム「MODE MOOD MODE」と、収録曲「Dizzy Trickster」とは何か

これは真骨頂だ。
アルバム2曲目、最初の1音を聴いた瞬間、直感したのを覚えている。

 

UNISON SQUARE GARDEN7thアルバム「MODE MOOD MODE」。
ライブツアー最中の元日零時に突如発表され、仰天と歓喜の中初日の出を迎えることとなった。

前年、タイアップが重なり4つものシングルが発表されていたが、それら全てが収録されるという報も入った。
前作「Dr.Izzy」がシングル1曲のみ(あの「シュガーソングとビターステップ」である)を含む全12曲で見事に完成したアルバムだったことを思うと、粒ぞろいのシングルを4曲も入れてアルバムが成立するのか、いやDr.Izzyを作ったユニゾンならできるかもしれない、と、気が気ではなかった。

CD発売当日まで、アルバム全12曲の曲名と曲順を伏せるという施策もあった。
UNISON SQUARE GARDENの曲順への並々ならぬこだわりは、複数媒体での発言から多くの人が知っていたので、そこへ追い付かんと熾烈な曲順予想、妄想合戦が繰り広げられていた。主な手がかりはシングル4曲+先行公開のリード曲1曲。加えてどんな曲調でどんなタイトルになるのかという要因、さらに、前のツアーで発表されていた新曲は入るのかという問題まで重なる。
とにかくこのアルバムを巡る状況は混迷を極めていた。

 

 

発売日、何もかも分からないまま再生ボタンに手を伸ばした。
1曲目「Own Civilization(nano-mile met)」の、およそUNISON SQUARE GARDENが出すとは思えない土埃煙る荒々しいサウンドに鋭く意表を突かれ、ますます何も分からなくなった状態で曲を終えた次の瞬間。耳を刺した聴き覚えのあるDコード。

 

それが2曲目、「Dizzy Trickster」であった。

 

Dは「アイラブニージュー」「crazy birthday」「メカトル時空探検隊」など、ユニゾンの中でも頭のネジを紛失した楽曲に頻出のコードだ。
歌詞は意味不明だが、読むだけで笑えるほど言葉遊びの応酬があり、曲調は問答無用で楽しい。ユニゾンの掲げる信念「ロックバンドは、楽しい」を体現した、要は馬鹿な曲である。
音だけを聴けば、そんな曲をアルバム先頭部に持ってくるのは挑戦的だと思えたが、Dizzy Tricksterの場合は歌詞がとても真っ直ぐだった。
ニゾンのアルバムには、公式ブログやインタビュー等で語られるバンドのスタンスが如実に現れた楽曲がしばしば登場する。こちらは「ロックバンドは、楽しい」をストレートに言葉にしたものと言えるだろう。

私にとってDizzy Tricksterは、楽しくて馬鹿な曲に見せかけた、バンドの信念を示す曲に思われた。
まさにユニゾンの真骨頂。それを今までと少し違うアプローチで実現したことに驚きながら、「いつものユニゾン」が今作も健在であることに快哉を叫んだものだ。

2018年1月の話である。

 

現在。
私のDizzy Tricksterへの捉え方は、大きく深化することになった。
久し振りに聴いたその時、あるフレーズが、今までにない切実さを伴い迫ってきたのである。

 

"ああみんなが大好きな物語の中じゃ呼吸がしづらいんだね"

 

この一節をもとにDizzy Tricksterを捉え直し、なぜこの曲が今になって胸を刺してきたのか考えてみたい。
これが本記事の本題である。
何故ならこのフレーズこそがDizzy Tricksterの中核であり、ひいてはMODE MOOD MODEというアルバム全体の性質にも深く関わると思われるからである。

 

Act Ⅰ:「Dizzy Trickster」における、「物語」の意味とは何か

「物語」とは、何か?

辞書上の主な意味は以下のようである。

kotobank.jp

 

中でも現代では⑤を指すのが一般的と思われる。

⑤ 日本の文学形態の一つ。作者の見聞または想像をもととし、人物・事件について人に語る形で叙述した散文の文学作品。
    
出典:https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%AA%9E-142639
精選版 日本国語大辞典「物語」の解説 より

 

Dizzy Tricksterの一節においては、"「みんなが大好きな」物語"、と表現されていることから、この「物語」には「みんな」にとって好感が持てる要素、娯楽的要素があると解釈でき、上記の意味で自然に通るだろう。

その上でフレーズ全体を見ると、「物語」が比喩である、と捉えることができる。
多くの人を楽しませる("みんなが大好きな")物語が自分には合わない("呼吸がしづらい")、という表現から、「多数派に馴染めない自分」を連想し、自らと重ね合わせた方は多いのではないかと思う。私もその一人だった。
周りに馴染めない状態の居心地の悪さに対し、「物語」という語を用いることで、詩的でありながら身近で「しっくりくる」的確な表現をしている。作詞・作曲・Ba.田淵智也の絶妙な言葉選びにはいつも本当に唸らされる。

ニゾンのスタンスが如実に現れた楽曲について先に触れたが、「多数派に馴染めない」状況、というのも頻出のモチーフである。多くの場合、その状況下でもポジティブに自分たちのやり方を貫く様を描いている。
バンドの方針という点では、2011年発表の「未完成デイジー」という曲までは既存の(≒多数派の)J-POPへの問題意識をもとに、言葉でJ-POPを"ひっくり返す"ことを志向していたという。歌詞に関して例を挙げると、2012年発表「さわれない歌」では、自分たちの歌に対して"みんなに届かなくてもいいから"とまで言っている。

こうした背景から私は、Dizzy Tricksterも同様のメッセージを孕んでいると解釈していた。つまり「多数派に馴染めない自分に対し、それでも自分を貫くよう、強く背中を押す曲」という解釈である。


しかし近年になり、本当にそれだけなのか?という思いが湧き上がってきた。
「物語」という言葉には、より広義の意味も存在しているのだ。辞書上では、例えばこんな意味もある。

① (━する) 種々の話題について話すこと。語り合うこと。四方山(よもやま)の話をすること。また、その話。

④ (━する) 特定の事柄について、その一部始終を話すこと。また、その話。特に口承的な伝承、また、それを語ることをいうことがある。

出典:https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%AA%9E-142639
精選版 日本国語大辞典「物語」の解説 より

 

創作物としての、いわゆるストーリーだけではなく、何かに対して人と話すこと、人に伝えることもまた「物語」であるという。

 

 

この観点からもう一度Dizzy Tricksterについて考えるにあたり、あるエッセイを紹介したい。

34歳で早逝した作家、伊藤計劃の文章である。

itoh-archive.hatenablog.com

 

「人は何故子供を作るのか」という問いを皮切りに、人間にとっての「物語」の正体に迫っている。
実は寒冷期においては生存に優位にはたらくという糖尿病の特質や、我々のいう「意識」は判断と行動が終わった前でなく後に生じる、という意識受動仮説を引き合いに出しながら、極めて説得力の高いロジックで「物語」を論じている。
私個人としては、これまで読んだあらゆる文章媒体の中で、最も強く記憶に刻まれているテキストである。興味があれば是非読んでいただきたい。
本来参考にすることさえおこがましいのだが、ここでは本稿に関連するポイントを自分なりに抜粋しまとめさせていただく。

 

  • 人間の身体機能は環境変化に応じてその場しのぎで獲得した継ぎ接ぎであるため、私たちは「現実」をバラバラにしか知覚できない。
  • しかし私たちの「意識」はバラバラの現実をひとつなぎの出来事=「物語」として編纂することができる。
  • 「現実」をコンパクトに編集し、「物語」=「フィクション」の形にすることではじめて、自身の人生を他者へ伝えることができる。
  • 人間は自分の「物語」を他者へ伝えることを通して、他者の中に生き続けることができる。→人間は「物語」でできている。
  • 「生き様」とは「フィクション」の同義語である。

 

 

以上の点を踏まえると、「物語」という言葉の意味が、「自らの人生そのものを編集したもの」にまで拡張されるのだ。
人と何かを話す、伝えるという意の「物語」には、自らの人生を他者へ託す、というニュアンスが付与される。
「文学作品」といった狭義の意味より、はるかに重みがある。

 

さて、Dizzy Trickster
「物語」=「自らの人生そのものを編集したもの」として定義し、フレーズに照らし合わせると、新たな解釈が見えてくる。
"みんなが大好きな物語"とは、多数の人間に共有されている他者の「物語」。それが自分自身と不整合を起こしている状態が"呼吸がしづらい"。
人間は自分の「物語」を他者に伝える、とされるが、当然一方通行ではない。他者から伝えられた物語もまた、自分の物語を構成する一部となる。人は他者の物語を組み込みながら生きているのだ。

他者の物語が自分自身と不整合を起こす、というのは、その物語を自分の物語に組み込めない、ということ。
それ自体におかしなことはない。親が作った手料理の中には親の物語が含まれているが、誰しも苦手な献立はあるはずだ。後に振り返り「今思えばあの時の食事も大切な思い出」と思うこともあるだろうが、それは時を経て「苦手な親の手料理」という物語が「親とのいい思い出」という物語に統合・変質した結果であり、「苦手な親の手料理」単体が自分の人生に強く影響していることは少ないだろう。

ネックなのは"みんなが大好きな"である。
人間の「物語」を創り伝える力は、環境変化に対応するためその場その場でバラバラに発達した身体機能・知覚の延長にある、とされる。であれば、"みんな"が1つの物語を好み共有している状態は、寒冷期における糖尿病と同様、適応の結果その物語を持つことが必要となった環境である、と考えられる。
"みんなが大好きな"≒みんなが共有している物語を自分に組み込めない。それはつまり、みんなの住まう環境下で生きるために必要ないし有用な情報を自分は手に入れられない、ということになる。親から子への教育、「村の掟」といった「生きるためのノウハウ」も広義では「物語」に含まれるのだ。
得られない情報の種類によっては、自分のアイデンティティ、ひいては命にかかわるかもしれない。
加えて、"呼吸がしづらい"。文字通り、呼吸困難の前触れだろう。

 

すなわちこれは、実存の危機、生命の危機を表現した歌詞なのではないか、というのが、現在の私の解釈である。

 

そしてこのフレーズはDizzy Tricksterの起点。1番Aメロを象徴する問題提起である。
既存の環境を支配する「物語」への違和感。自分の実存と命が脅かされる予感。
極めて切実な現状の記述から始まるDizzy Tricksterは、4分23秒かけて、現状を打開しようとする楽曲なのである。

 

Act Ⅱ:「Dizzy Trickster」が提示する「物語」とは、何か

"みんなが大好きな物語"を自分に組み込めないという危機に対し、どう立ち向かえばいいのか?
Dizzy Tricksterでは、我々に「~しよう」と直接訴えるのではなく、「僕」を主語・主体とした「生き様」を見せることで立ち向かおうとしているように思える。
その「生き様」とは、「"みんな"から離れ、『自分の物語』を創ること」である。

ここからは順を追って歌詞を見ていき、重要な箇所を検証したい。

(以下、Dizzy Tricksterの歌詞全文はこちらを参照)

www.uta-net.com

 

1番Aメロ、"ああ上手に準備されたユートピアに浸って~"から"~みんなが大好きな物語の中じゃ 呼吸がしづらいんだね"までが問題の提示である。
どんな問題かは先述の通り。そして続く歌詞では次のように問題を受け止めている。

 

多分一生涯じゃ満足な答はとても出やしないし

 

"みんなが大好きな"物語を自分は受け容れられない。だがそれでは"みんな"の中で生きるのが難しくなる。
そこにはジレンマがあるが、どちらを選んだところで満足できるかは分からないと、見切りをつけているのだ。
この認識が次のBメロに繋がる。

 

曖昧なんて論外の優しいmusic
どうしようも馴染めないから 差し出された手は掴まなかった

 

ジレンマを投げ捨て、"みんな"と"みんなが大好きな物語"に背を向ける瞬間である。
楽曲中では、"掴まなかった"でブレイク(演奏が止まった無音の状態)となる。ハッとする部分だ。何かを決意したのだ、というのが伝わる。

しかしそれは、命懸けの道の始まりである。
"優しいmusic"は"みんなが大好きな物語"の一例と読み取れる。"みんな"は手を差し出してくれているのだ。
生存という観点では明らかに"みんな"につく方がいい。"みんな"の手を拒むことで、”呼吸がしづらい” "どうしようも馴染めない"という状態からは逃れられるが、命の危機に繋がる状態に変わりはない。未だ問題は残っている。

確かに"満足な答はとても出やしないし"とは言っているし、リスクのある選択と分かっている。しかし、せっかくわざと"みんな"に背を向けたのに、状況は何も変わらないのか?


そうではない。
"みんなが大好きな物語"の不在という危機に対する新たなアプローチの萌芽は、次の1番サビから現れる。

 

Dizzy Tricksterはいつでもぐちゃぐちゃのまんまの希望
そのままにして僕を笑う
まだわかんない言語化不能の断片たちを連れていこうか

 

タイトルである"Dizzy Trickster"の登場である。
歌詞の流れから、"みんな"に背を向け手を拒んだ直後に見つけた「何か」が"Dizzy Trickster"だと読み取れる。
そこに"希望"を見出しているのだ。"みんなが大好きな物語"とのジレンマに苦しんだ時より光が見えている状態だろう。
加えて、前段では"差し出された手は掴まなかった"と否定の意志を示すだけにとどまったが、ここでは"連れていこうか"と、行動しようとしており、前進が感じられる。

さらに重要なのは、"希望"が"ぐちゃぐちゃのまんま"であることと、"言語化不能の断片たち"である。
思い出していただきたい。バラバラの現実を「意識」によりひとつなぎの出来事に編纂したものが「物語」である。
"ぐちゃぐちゃのまんま"な"希望"は今直面している現実の在り様。"言語化不能の断片たち"を連れていく、というのはそれらをひとつなぎにすることと考えられないだろうか。
ここで言う"希望"が今の危機の突破口になるのであれば、"ぐちゃぐちゃのまんま"の状態を何とかして"希望"足らしめることは危機への対抗手段になりうる。

 

つまりここでは、"みんなが大好きな物語"の代わりに、"Dizzy Trickster"から見出された"希望"を「物語」にしよう、という意志が表現されているのである。


では歌詞中における"Dizzy Trickster"とは具体的に何なのか?より明確になるのは2番サビである。

 

Dizzy Tricksterに僕の声 届かなくていいけど
あなたの世界で息をさせて

 

"みんな"の中で"呼吸がしづらい"と苦しんでいた者が、「ここで呼吸をさせてくれ」と言った瞬間である。
先述の通り、この歌詞における息苦しさは、"みんなが大好きな物語"と自分との不整合に原因がある。逆に言えば、呼吸がしたくなるのは、その環境における「物語」と自分が合致した状態であるということ。
"あなた"は"Dizzy Trickster"と捉えるのが自然だろう。

 

従って、歌詞中における"Dizzy Trickster"とは、"みんなが大好きな物語"とは異なる、自分の好きな「物語」だと解釈できる。

 

ただし話はここで終わりではない。"みんなが大好きな物語"の代わりの「物語」を見つけてめでたしめでたし、というわけにはいかないのだ。
実際ここでは、"息をさせて"という願望の域を出ず、息をしたか、できるようになったかまでは読み取れない。
おまけに"Dizzy Trickster"に対して、"僕の声 届かなくていいけど"と言っている。かつて"みんな"が居た、手を差し伸べてくれる環境とは真逆の、自分が何か言っても返ってこないハードな環境が想像できる。
"呼吸がしづらい"問題=命の危機はまだ解決に至っていない。そして2番サビは次のように続く。

 

もしも明後日 僕が遠くへ旅立つとしても
それはきっと、次のページに行った証拠で だからちゃんと走らなくちゃ
それはきっと、今もそう

 

「呼吸をさせてくれ」と思える環境を、明後日には旅立つかもしれないというのだ。

ここまで見て1つの可能性に気づく。
この歌詞においては、自分と「物語」が合致する環境=自分にとって良いと思われる環境に身を置くことを重要視していない。それは問題の対抗策ではないと捉えられている。
むしろ逆で、今の環境の先へ足を進めることに主眼が置かれているのだ。「物語」を"次のページ"へ進めること、それは自分で自分自身の「物語」を創ることに他ならない。
"だからちゃんと走らなくちゃ"という行動が象徴している。

その行動、「自分の物語」を創ろうとした結果は、Cメロの歌詞でようやく描かれる。

 

やっぱ離れられそうにもない なんか忘れそうで忘れらんない
端から端までそう あなたの血が僕に流れてるんだ  

 

"みんなが大好きな物語"を自分に組み込めないことで、生きるために必要な情報までも得られないことが、冒頭で挙げられた問題であった。そのジレンマへの違和感・苦しみが"呼吸がしづらい"と表現されている。
この段では"Dizzy Trickster"が提示した「物語」を"忘れそうで忘れらんない"。
"みんな"に背を向けた先で出会った新たな「物語」は、きちんと自分に組み込まれているのだ。"Dizzy Trickster"の「物語」から離れ、自らの力で「自分の物語」を創る道を選んだ後も、である。

そして何より"あなたの血が僕に流れてるんだ"。
呼吸は全身に血液を循環させる。自分の血の流れを実感できているということは、きちんと呼吸ができているということであり、これ以上ない「生きている」証拠である。

 

かくして生命の危機は脱した。
"みんな"の「物語」からも"Dizzy Trickster"の「物語」からも離れた場所で、自分の力で「物語」を創り、生きられるようになったのである。


以上が、Dizzy Tricksterの歌詞を「物語」から新たに解釈したものである。
まとめるなら、やはり「"みんな"から離れ、『自分の物語』を創ること」に集約されるだろう。
「物語」とは「自らの人生そのものを編集したもの」であり、「自分の物語」を創るというのは、生きることに等しい。
Dizzy Tricksterは「ユニゾンの真骨頂」どころか、人が生きることの本来の形を表現した曲であると、今の私は考えている。

 

 


しばらく前から、「物語」と人の生命の危機が密接になってきていると感じていた。

 

感染症の流行や、世界情勢の変動を持ち出すまでもない。
近年頻発した長期シリーズの漫画やアニメの完結、音楽でいえばバンドの解散、活動休止、体制変更などに対しても、同じくらいの危機を感じる人を多く見てきた。
特に自分の思い通りでない結末だったときのダメージは大きかっただろう。気持ちは痛いほど分かる。

だが一方で、そのコンテンツ、「物語」を、そのまま自分自身のアイデンティティに結びつけるのは非常に危険なのではないかという違和感があった。
そんな中、Dizzy Tricksterは、自分の好きな「物語」を見つけ安住する「だけではなく」、それをもとにした自分自身の道を行かなくちゃ、という意志を体現したように聞こえた。
だからこそ、2018年と異なる切実さを伴い、今の私の心を貫いたのだと思う。

 

 

ちなみに「トリックスター」は、神話・伝承で「いたずら者」として描かれる登場人物のことだという。その性質は次のように説明されている。

 

この世に混乱と破壊を引き起こすと同時に、しばしば混乱のなかから未知の文化要素を生み出し、破壊のあとにふたたび新しい秩序をもたらすという文化英雄的役割も果たしている。


トリックスターは、神と人間、天と地、秩序と混沌(こんとん)、自然と文化の間を行き来し、その境界で活躍する両義的存在となっている。

 

出典:https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC-170969
日本大百科全書(ニッポニカ)「トリックスター」の解説 より

 

Dizzy Tricksterの歌詞には神話ほどのスケールはない。
しかし「自然と文化」の行き来、という点では、"みんなが大好きな物語"から歌詞中の"Dizzy Trickster"の「物語」へと動く様が合致しているように見える。
物語の登場人物の中でも積極的に立ち回る存在であり、その行動の結果、混乱・破壊に加え、新しい秩序が生まれる。物騒だが、要はトリックスターの行動が物語に決定的な変化を生むということだ。
それはトリックスターの「生き様」である。

Dizzy Tricksterにおいても同様である。私たちに「~しよう」と促すのではなく、「僕」の選択と行動を通し、聴いた者を焚きつける歌詞だ。
歌詞中の「僕」は、"みんなが大好きな物語"のような、自分が馴染めない「物語」に代わるもの、歌詞中で言う"Dizzy Trickster"を見つけた。
そこにとどまらず、"Dizzy Trickster"が提示する"希望"を手がかりに、自分で走らなくちゃ=「自分の物語」を創ろう、という在り様、生き様。それが一連の歌詞である。
Cメロ後、最後のサビにおいても、問題を解決してなお走ろうとしている。

 

まだ火照ってる 僕は追いかけずにいられない だけどきっと 
一人ぼっちで走らなくちゃ ぐちゃぐちゃのまんまの希望でも
この高揚感は誰にも奪えない

 

トリックスターは語らない。
彼の行動が物語になるのだ。

 

ActⅢ~舞台転換:「Dizzy Trickster」から、自分の物語をどう創ればよいか

人間が物語でできているならば、人間が創る音楽にもまた物語があり、アルバムという形式の音楽媒体は、物語の集合体と言える。

 

全体で1つの長編小説のような物語を形成するコンセプトアルバムというものがあるが、多くのアルバムはそうではなく、バラバラのシングル曲/アルバム用新曲を編纂した、短編集に近いものだ。
MODE MOOD MODEというアルバムは後者にあたるだろう。

そう考えると、音源ではDizzy Tricksterの直後、3曲目の「オーケストラを観に行こう」という配置が示唆的である。
「物語」という言葉を起点に、マクロにユニゾン、あるいは人間の在り方を提示したDizzy Tricksterと、ある“30度を超えた日曜”を舞台にオーケストラへ誘おうと逡巡する二人、というミクロな物語を描くオーケストラを観に行こうの対比が興味深い。
私自身、この2曲の配置が生む曲調・歌詞のギャップには特に驚かされた。田淵智也による、アルバムの流れをスムーズにしつつ驚きを与える工夫だったのだと思う。

こうした曲順に対する驚きが、アルバム12曲全てに存在する。これは1曲1曲の持つ物語性に自覚的だからこそ実現できたのではないだろうか。
アルバム発売前には熾烈な曲順の予想があった。シングル4曲+リード曲1曲の曲調や歌詞、タイアップ先、さらに過去のアルバムの傾向など各種情報が手がかりとなり、「この曲はアルバムの頭にありそう」「この2曲は離れる」などの予想はできた。それらをもってしても曲順、特にシングル4曲の位置を全て当てられた者は皆無だった。
流石に難易度の高すぎるクイズとは思うが、「各々が予想した曲順」という物語を、実際の曲順・構成=アルバム「MODE MOOD MODE」という物語が上回った、と言えるだろう。
一見バラバラな12曲に対し、曲順・構成という要素でどうにか1つにつなぎ合わせ、「これが『MODE MOOD MODE』という物語だ」と提示してみせる。自信満々なユニゾン3人(特に田淵智也)の姿が目に浮かぶようだ。


そして、このように既存の曲を新たな曲とまとめ直す営み。タイアップ曲という、別の物語のため生まれた曲を1つの塊に組み込む営み。それを音楽として誰かへ届ける営み。
それらは、自分の物語を創り、他者の物語を組み込み、誰かに伝えること。

つまり人が生きるということと全く変わらないのだ。

 


こうしてUNISON SQUARE GARDENは、彼らの物語を創っている。
では私たちは、どうやって自分の物語を創ればいいだろうか?

大仰な問題提起で正直恥ずかしいのだが、Dizzy Tricksterを聴くとそんな風に問われているように思え、どうしても気が急いてしまう。
"走らなくちゃ"と、逸る気持ちを表すDizzy Tricksterは、気づかず自分が内面化した"みんなが大好きな物語"を振り切り、全く異なる自らの物語を創ろうとする人の在り方を描いているように思えてならない。


その答えの一端は、彼らのライブにあると思う。
ライブ会場はいわばUNISON SQUARE GARDENという大きな物語の影響下である。
同時に、ライブに来た一人一人にはそれぞれの物語があり、期待がある。例えば、これまでの傾向から導かれる「あの曲はやりそう・やってほしい」といった、セットリストへの期待である。

 

そんな期待はあっさり崩れ去ることを、UNISON SQUARE GARDENのライブを体験した方なら知っているはずだ。

 

既存の曲をまとめ直し1つの物語に再形成する、というのはライブも全く同じ。アルバムとの違いは、どの曲が披露されるかほぼ予想できないという点だ。
アルバム通り、Dizzy Tricksterの後がオーケストラを観に行こう、なんてことはないだろう。ライブ前にはセットリスト予想が飛び交うものだが、当たっているのを見たためしはない。さらにライブにはその場限りのドラムソロやセッションといった要素もある。
ライブはそんな予測不可能性の結晶と言える。観客にとっては"上手に準備されたユートピア"には程遠い。
予測できないものに対し、私たち個人の物語は無力に思える。

しかし私たちは、UNISON SQUARE GARDENのライブにおいて、自らの期待が、物語が崩れることをむしろ歓迎しているはずだ。
それは予想を上回る、常識を超えたステージを観られるということであり、私たちは心から楽しんでいるのだから。

既存の物語が崩れることは恐ろしく思えるが、必ずしもそうとは限らない。思いがけずより大きな喜びに至る過程でもある。
というより、一度崩れなければ、新たに創り直すなんて発想には至らないはずだ。

 

"ああみんなが大好きな物語の中じゃ呼吸がしづらいんだね"

 

"呼吸がしづらい"という「違和感」レベルの状態(ただし場合によっては命にかかわる)の自分に衝撃を与え、"みんなが大好きな物語"との不整合を決定的に自覚させ、強く行動へ向かわせる。
「自分の物語」を創るには、"走らなくちゃ"と強い衝動を喚起する、そんな予測できないもの、常識を超えたものが必要なのだと思う。

私たちの場合は、それをDizzy Tricksterと呼べるのではないだろうか。

 

様々な概念が当てはまるはずだが、私たちにとってのUNISON SQUARE GARDENのライブは、まさに好例だろう。
観た者の内部を定期的に揺るがしてくれる。「自分の物語」の状態を確認する機会となるはずだ。
ただし彼らの場合、曲間はほとんどなく、時にはMCさえなく、次から次へと絶え間なく展開する。Dizzy Tricksterのような疾走感溢れる曲は尚更である。
舞台転換なんてあるか分からない。故に一瞬も見逃せない。
"走らなくちゃ"という切羽詰まった表現からは、こうした時間的要因による焦りも垣間見える。

 


だから、今、この一瞬である。

「一瞬」は脳が作り出すフィクションに過ぎないという向きもあるが、今を生きている者にとって、それこそ些末な問題に過ぎない。

 


既存の「物語」を揺るがし、強く行動を呼び起こす存在を見つけること。
それがどんなにぐちゃぐちゃで、言語化不能であっても追いかけ、対峙すること。
私たちが直面する存在、私たちにとってのDizzy Tricksterの「物語」を組み込むこと。

そしてそれを反映した「自分の物語」を新たに創ること。
自分自身の人生を生き、次は自分が「生き様」を通して誰かへ伝えること。

 


それこそがDizzy Tricksterから受け取れる「物語」であり、あらゆる「物語」への向き合い方に対する1つの解であると、私は確信している。

 

「次の曲は何だ?」

 

例えばそんな高揚感が、何よりも確固たる証拠になる。

 


そして次の曲はこちら。(2023/1/17追記)

y-u-0829-2019-01.hatenablog.com

 

 

 


企画「MODE MOOD MODE SENTENCE」全曲セットリスト(全記事一覧)はこちら。(2023/1/24追記)

summerday.hatenablog.com

 

 

 

 

 

アルバム「MODE MOOD MODE」発売5周年、

おめでとうございます!

 

 

 

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