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北極星が視界から一向に消えない

トリックスターは語らない【MODE MOOD MODE SENTENCE】

前説:この文章について

この文章は、ナツ(@unfinisheddaisy)さんによる企画「MODE MOOD MODE SENTENCE」へ寄稿したものです。
内容としては、2023年1月24日で発売5周年を迎えるUNISON SQUARE GARDENの7thフルアルバム「MODE MOOD MODE」の1曲について、自由な方法で文章化したものとなっております。
企画の詳細は下記記事を参照いただくか、Twitterにて#MMM_SENTENCE を検索ください。

summerday.hatenablog.com

 

さだくにと申します。
お誘いをいただき、初めてUNISON SQUARE GARDENについての文章を執筆いたしました。

UNISON SQUARE GARDENについては既に、文章、ハンドメイド作品、あるいは音楽と、本当に多くの方が方法を問わず想いを表現しています。
もはや立ち入る余地はないと感じていたところ、以前寄稿した他媒体他アーティストへの文章に目を留めていただき、今回筆を執ることにつながりました。
UNISON SQUARE GARDENについての文章化は門外漢であるにもかかわらず、貴重な機会をいただけたこと、心より感謝いたします。

この文章は企画のオーダーに応えることを目標としていますが、それとは別に「筆者が属する別のファンコミュニティのような、UNISON SQUARE GARDENをよく知らない方にも届いてほしい」という個人的な願いがあります(あくまで個人的な)。
そのためUNISON SQUARE GARDEN、およびMODE MOOD MODEの基礎的な情報等を省略せず記述しており、文章が非常に長くなっております。
何卒ご了承ください。


よろしければご一読いただき、その結果、お手持ちのCDプレイヤー、サブスクリプションサービス等音楽媒体の再生ボタンを押していただけるなら、これに勝る喜びはありません。
よろしくお願いいたします。


それでは、本題に移ります。

 

🦒                                      🦒                                      🦒

 

 

セットアップ:アルバム「MODE MOOD MODE」と、収録曲「Dizzy Trickster」とは何か

これは真骨頂だ。
アルバム2曲目、最初の1音を聴いた瞬間、直感したのを覚えている。

 

UNISON SQUARE GARDEN7thアルバム「MODE MOOD MODE」。
ライブツアー最中の元日零時に突如発表され、仰天と歓喜の中初日の出を迎えることとなった。

前年、タイアップが重なり4つものシングルが発表されていたが、それら全てが収録されるという報も入った。
前作「Dr.Izzy」がシングル1曲のみ(あの「シュガーソングとビターステップ」である)を含む全12曲で見事に完成したアルバムだったことを思うと、粒ぞろいのシングルを4曲も入れてアルバムが成立するのか、いやDr.Izzyを作ったユニゾンならできるかもしれない、と、気が気ではなかった。

CD発売当日まで、アルバム全12曲の曲名と曲順を伏せるという施策もあった。
UNISON SQUARE GARDENの曲順への並々ならぬこだわりは、複数媒体での発言から多くの人が知っていたので、そこへ追い付かんと熾烈な曲順予想、妄想合戦が繰り広げられていた。主な手がかりはシングル4曲+先行公開のリード曲1曲。加えてどんな曲調でどんなタイトルになるのかという要因、さらに、前のツアーで発表されていた新曲は入るのかという問題まで重なる。
とにかくこのアルバムを巡る状況は混迷を極めていた。

 

 

発売日、何もかも分からないまま再生ボタンに手を伸ばした。
1曲目「Own Civilization(nano-mile met)」の、およそUNISON SQUARE GARDENが出すとは思えない土埃煙る荒々しいサウンドに鋭く意表を突かれ、ますます何も分からなくなった状態で曲を終えた次の瞬間。耳を刺した聴き覚えのあるDコード。

 

それが2曲目、「Dizzy Trickster」であった。

 

Dは「アイラブニージュー」「crazy birthday」「メカトル時空探検隊」など、ユニゾンの中でも頭のネジを紛失した楽曲に頻出のコードだ。
歌詞は意味不明だが、読むだけで笑えるほど言葉遊びの応酬があり、曲調は問答無用で楽しい。ユニゾンの掲げる信念「ロックバンドは、楽しい」を体現した、要は馬鹿な曲である。
音だけを聴けば、そんな曲をアルバム先頭部に持ってくるのは挑戦的だと思えたが、Dizzy Tricksterの場合は歌詞がとても真っ直ぐだった。
ニゾンのアルバムには、公式ブログやインタビュー等で語られるバンドのスタンスが如実に現れた楽曲がしばしば登場する。こちらは「ロックバンドは、楽しい」をストレートに言葉にしたものと言えるだろう。

私にとってDizzy Tricksterは、楽しくて馬鹿な曲に見せかけた、バンドの信念を示す曲に思われた。
まさにユニゾンの真骨頂。それを今までと少し違うアプローチで実現したことに驚きながら、「いつものユニゾン」が今作も健在であることに快哉を叫んだものだ。

2018年1月の話である。

 

現在。
私のDizzy Tricksterへの捉え方は、大きく深化することになった。
久し振りに聴いたその時、あるフレーズが、今までにない切実さを伴い迫ってきたのである。

 

"ああみんなが大好きな物語の中じゃ呼吸がしづらいんだね"

 

この一節をもとにDizzy Tricksterを捉え直し、なぜこの曲が今になって胸を刺してきたのか考えてみたい。
これが本記事の本題である。
何故ならこのフレーズこそがDizzy Tricksterの中核であり、ひいてはMODE MOOD MODEというアルバム全体の性質にも深く関わると思われるからである。

 

Act Ⅰ:「Dizzy Trickster」における、「物語」の意味とは何か

「物語」とは、何か?

辞書上の主な意味は以下のようである。

kotobank.jp

 

中でも現代では⑤を指すのが一般的と思われる。

⑤ 日本の文学形態の一つ。作者の見聞または想像をもととし、人物・事件について人に語る形で叙述した散文の文学作品。
    
出典:https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%AA%9E-142639
精選版 日本国語大辞典「物語」の解説 より

 

Dizzy Tricksterの一節においては、"「みんなが大好きな」物語"、と表現されていることから、この「物語」には「みんな」にとって好感が持てる要素、娯楽的要素があると解釈でき、上記の意味で自然に通るだろう。

その上でフレーズ全体を見ると、「物語」が比喩である、と捉えることができる。
多くの人を楽しませる("みんなが大好きな")物語が自分には合わない("呼吸がしづらい")、という表現から、「多数派に馴染めない自分」を連想し、自らと重ね合わせた方は多いのではないかと思う。私もその一人だった。
周りに馴染めない状態の居心地の悪さに対し、「物語」という語を用いることで、詩的でありながら身近で「しっくりくる」的確な表現をしている。作詞・作曲・Ba.田淵智也の絶妙な言葉選びにはいつも本当に唸らされる。

ニゾンのスタンスが如実に現れた楽曲について先に触れたが、「多数派に馴染めない」状況、というのも頻出のモチーフである。多くの場合、その状況下でもポジティブに自分たちのやり方を貫く様を描いている。
バンドの方針という点では、2011年発表の「未完成デイジー」という曲までは既存の(≒多数派の)J-POPへの問題意識をもとに、言葉でJ-POPを"ひっくり返す"ことを志向していたという。歌詞に関して例を挙げると、2012年発表「さわれない歌」では、自分たちの歌に対して"みんなに届かなくてもいいから"とまで言っている。

こうした背景から私は、Dizzy Tricksterも同様のメッセージを孕んでいると解釈していた。つまり「多数派に馴染めない自分に対し、それでも自分を貫くよう、強く背中を押す曲」という解釈である。


しかし近年になり、本当にそれだけなのか?という思いが湧き上がってきた。
「物語」という言葉には、より広義の意味も存在しているのだ。辞書上では、例えばこんな意味もある。

① (━する) 種々の話題について話すこと。語り合うこと。四方山(よもやま)の話をすること。また、その話。

④ (━する) 特定の事柄について、その一部始終を話すこと。また、その話。特に口承的な伝承、また、それを語ることをいうことがある。

出典:https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%AA%9E-142639
精選版 日本国語大辞典「物語」の解説 より

 

創作物としての、いわゆるストーリーだけではなく、何かに対して人と話すこと、人に伝えることもまた「物語」であるという。

 

 

この観点からもう一度Dizzy Tricksterについて考えるにあたり、あるエッセイを紹介したい。

34歳で早逝した作家、伊藤計劃の文章である。

itoh-archive.hatenablog.com

 

「人は何故子供を作るのか」という問いを皮切りに、人間にとっての「物語」の正体に迫っている。
実は寒冷期においては生存に優位にはたらくという糖尿病の特質や、我々のいう「意識」は判断と行動が終わった前でなく後に生じる、という意識受動仮説を引き合いに出しながら、極めて説得力の高いロジックで「物語」を論じている。
私個人としては、これまで読んだあらゆる文章媒体の中で、最も強く記憶に刻まれているテキストである。興味があれば是非読んでいただきたい。
本来参考にすることさえおこがましいのだが、ここでは本稿に関連するポイントを自分なりに抜粋しまとめさせていただく。

 

  • 人間の身体機能は環境変化に応じてその場しのぎで獲得した継ぎ接ぎであるため、私たちは「現実」をバラバラにしか知覚できない。
  • しかし私たちの「意識」はバラバラの現実をひとつなぎの出来事=「物語」として編纂することができる。
  • 「現実」をコンパクトに編集し、「物語」=「フィクション」の形にすることではじめて、自身の人生を他者へ伝えることができる。
  • 人間は自分の「物語」を他者へ伝えることを通して、他者の中に生き続けることができる。→人間は「物語」でできている。
  • 「生き様」とは「フィクション」の同義語である。

 

 

以上の点を踏まえると、「物語」という言葉の意味が、「自らの人生そのものを編集したもの」にまで拡張されるのだ。
人と何かを話す、伝えるという意の「物語」には、自らの人生を他者へ託す、というニュアンスが付与される。
「文学作品」といった狭義の意味より、はるかに重みがある。

 

さて、Dizzy Trickster
「物語」=「自らの人生そのものを編集したもの」として定義し、フレーズに照らし合わせると、新たな解釈が見えてくる。
"みんなが大好きな物語"とは、多数の人間に共有されている他者の「物語」。それが自分自身と不整合を起こしている状態が"呼吸がしづらい"。
人間は自分の「物語」を他者に伝える、とされるが、当然一方通行ではない。他者から伝えられた物語もまた、自分の物語を構成する一部となる。人は他者の物語を組み込みながら生きているのだ。

他者の物語が自分自身と不整合を起こす、というのは、その物語を自分の物語に組み込めない、ということ。
それ自体におかしなことはない。親が作った手料理の中には親の物語が含まれているが、誰しも苦手な献立はあるはずだ。後に振り返り「今思えばあの時の食事も大切な思い出」と思うこともあるだろうが、それは時を経て「苦手な親の手料理」という物語が「親とのいい思い出」という物語に統合・変質した結果であり、「苦手な親の手料理」単体が自分の人生に強く影響していることは少ないだろう。

ネックなのは"みんなが大好きな"である。
人間の「物語」を創り伝える力は、環境変化に対応するためその場その場でバラバラに発達した身体機能・知覚の延長にある、とされる。であれば、"みんな"が1つの物語を好み共有している状態は、寒冷期における糖尿病と同様、適応の結果その物語を持つことが必要となった環境である、と考えられる。
"みんなが大好きな"≒みんなが共有している物語を自分に組み込めない。それはつまり、みんなの住まう環境下で生きるために必要ないし有用な情報を自分は手に入れられない、ということになる。親から子への教育、「村の掟」といった「生きるためのノウハウ」も広義では「物語」に含まれるのだ。
得られない情報の種類によっては、自分のアイデンティティ、ひいては命にかかわるかもしれない。
加えて、"呼吸がしづらい"。文字通り、呼吸困難の前触れだろう。

 

すなわちこれは、実存の危機、生命の危機を表現した歌詞なのではないか、というのが、現在の私の解釈である。

 

そしてこのフレーズはDizzy Tricksterの起点。1番Aメロを象徴する問題提起である。
既存の環境を支配する「物語」への違和感。自分の実存と命が脅かされる予感。
極めて切実な現状の記述から始まるDizzy Tricksterは、4分23秒かけて、現状を打開しようとする楽曲なのである。

 

Act Ⅱ:「Dizzy Trickster」が提示する「物語」とは、何か

"みんなが大好きな物語"を自分に組み込めないという危機に対し、どう立ち向かえばいいのか?
Dizzy Tricksterでは、我々に「~しよう」と直接訴えるのではなく、「僕」を主語・主体とした「生き様」を見せることで立ち向かおうとしているように思える。
その「生き様」とは、「"みんな"から離れ、『自分の物語』を創ること」である。

ここからは順を追って歌詞を見ていき、重要な箇所を検証したい。

(以下、Dizzy Tricksterの歌詞全文はこちらを参照)

www.uta-net.com

 

1番Aメロ、"ああ上手に準備されたユートピアに浸って~"から"~みんなが大好きな物語の中じゃ 呼吸がしづらいんだね"までが問題の提示である。
どんな問題かは先述の通り。そして続く歌詞では次のように問題を受け止めている。

 

多分一生涯じゃ満足な答はとても出やしないし

 

"みんなが大好きな"物語を自分は受け容れられない。だがそれでは"みんな"の中で生きるのが難しくなる。
そこにはジレンマがあるが、どちらを選んだところで満足できるかは分からないと、見切りをつけているのだ。
この認識が次のBメロに繋がる。

 

曖昧なんて論外の優しいmusic
どうしようも馴染めないから 差し出された手は掴まなかった

 

ジレンマを投げ捨て、"みんな"と"みんなが大好きな物語"に背を向ける瞬間である。
楽曲中では、"掴まなかった"でブレイク(演奏が止まった無音の状態)となる。ハッとする部分だ。何かを決意したのだ、というのが伝わる。

しかしそれは、命懸けの道の始まりである。
"優しいmusic"は"みんなが大好きな物語"の一例と読み取れる。"みんな"は手を差し出してくれているのだ。
生存という観点では明らかに"みんな"につく方がいい。"みんな"の手を拒むことで、”呼吸がしづらい” "どうしようも馴染めない"という状態からは逃れられるが、命の危機に繋がる状態に変わりはない。未だ問題は残っている。

確かに"満足な答はとても出やしないし"とは言っているし、リスクのある選択と分かっている。しかし、せっかくわざと"みんな"に背を向けたのに、状況は何も変わらないのか?


そうではない。
"みんなが大好きな物語"の不在という危機に対する新たなアプローチの萌芽は、次の1番サビから現れる。

 

Dizzy Tricksterはいつでもぐちゃぐちゃのまんまの希望
そのままにして僕を笑う
まだわかんない言語化不能の断片たちを連れていこうか

 

タイトルである"Dizzy Trickster"の登場である。
歌詞の流れから、"みんな"に背を向け手を拒んだ直後に見つけた「何か」が"Dizzy Trickster"だと読み取れる。
そこに"希望"を見出しているのだ。"みんなが大好きな物語"とのジレンマに苦しんだ時より光が見えている状態だろう。
加えて、前段では"差し出された手は掴まなかった"と否定の意志を示すだけにとどまったが、ここでは"連れていこうか"と、行動しようとしており、前進が感じられる。

さらに重要なのは、"希望"が"ぐちゃぐちゃのまんま"であることと、"言語化不能の断片たち"である。
思い出していただきたい。バラバラの現実を「意識」によりひとつなぎの出来事に編纂したものが「物語」である。
"ぐちゃぐちゃのまんま"な"希望"は今直面している現実の在り様。"言語化不能の断片たち"を連れていく、というのはそれらをひとつなぎにすることと考えられないだろうか。
ここで言う"希望"が今の危機の突破口になるのであれば、"ぐちゃぐちゃのまんま"の状態を何とかして"希望"足らしめることは危機への対抗手段になりうる。

 

つまりここでは、"みんなが大好きな物語"の代わりに、"Dizzy Trickster"から見出された"希望"を「物語」にしよう、という意志が表現されているのである。


では歌詞中における"Dizzy Trickster"とは具体的に何なのか?より明確になるのは2番サビである。

 

Dizzy Tricksterに僕の声 届かなくていいけど
あなたの世界で息をさせて

 

"みんな"の中で"呼吸がしづらい"と苦しんでいた者が、「ここで呼吸をさせてくれ」と言った瞬間である。
先述の通り、この歌詞における息苦しさは、"みんなが大好きな物語"と自分との不整合に原因がある。逆に言えば、呼吸がしたくなるのは、その環境における「物語」と自分が合致した状態であるということ。
"あなた"は"Dizzy Trickster"と捉えるのが自然だろう。

 

従って、歌詞中における"Dizzy Trickster"とは、"みんなが大好きな物語"とは異なる、自分の好きな「物語」だと解釈できる。

 

ただし話はここで終わりではない。"みんなが大好きな物語"の代わりの「物語」を見つけてめでたしめでたし、というわけにはいかないのだ。
実際ここでは、"息をさせて"という願望の域を出ず、息をしたか、できるようになったかまでは読み取れない。
おまけに"Dizzy Trickster"に対して、"僕の声 届かなくていいけど"と言っている。かつて"みんな"が居た、手を差し伸べてくれる環境とは真逆の、自分が何か言っても返ってこないハードな環境が想像できる。
"呼吸がしづらい"問題=命の危機はまだ解決に至っていない。そして2番サビは次のように続く。

 

もしも明後日 僕が遠くへ旅立つとしても
それはきっと、次のページに行った証拠で だからちゃんと走らなくちゃ
それはきっと、今もそう

 

「呼吸をさせてくれ」と思える環境を、明後日には旅立つかもしれないというのだ。

ここまで見て1つの可能性に気づく。
この歌詞においては、自分と「物語」が合致する環境=自分にとって良いと思われる環境に身を置くことを重要視していない。それは問題の対抗策ではないと捉えられている。
むしろ逆で、今の環境の先へ足を進めることに主眼が置かれているのだ。「物語」を"次のページ"へ進めること、それは自分で自分自身の「物語」を創ることに他ならない。
"だからちゃんと走らなくちゃ"という行動が象徴している。

その行動、「自分の物語」を創ろうとした結果は、Cメロの歌詞でようやく描かれる。

 

やっぱ離れられそうにもない なんか忘れそうで忘れらんない
端から端までそう あなたの血が僕に流れてるんだ  

 

"みんなが大好きな物語"を自分に組み込めないことで、生きるために必要な情報までも得られないことが、冒頭で挙げられた問題であった。そのジレンマへの違和感・苦しみが"呼吸がしづらい"と表現されている。
この段では"Dizzy Trickster"が提示した「物語」を"忘れそうで忘れらんない"。
"みんな"に背を向けた先で出会った新たな「物語」は、きちんと自分に組み込まれているのだ。"Dizzy Trickster"の「物語」から離れ、自らの力で「自分の物語」を創る道を選んだ後も、である。

そして何より"あなたの血が僕に流れてるんだ"。
呼吸は全身に血液を循環させる。自分の血の流れを実感できているということは、きちんと呼吸ができているということであり、これ以上ない「生きている」証拠である。

 

かくして生命の危機は脱した。
"みんな"の「物語」からも"Dizzy Trickster"の「物語」からも離れた場所で、自分の力で「物語」を創り、生きられるようになったのである。


以上が、Dizzy Tricksterの歌詞を「物語」から新たに解釈したものである。
まとめるなら、やはり「"みんな"から離れ、『自分の物語』を創ること」に集約されるだろう。
「物語」とは「自らの人生そのものを編集したもの」であり、「自分の物語」を創るというのは、生きることに等しい。
Dizzy Tricksterは「ユニゾンの真骨頂」どころか、人が生きることの本来の形を表現した曲であると、今の私は考えている。

 

 


しばらく前から、「物語」と人の生命の危機が密接になってきていると感じていた。

 

感染症の流行や、世界情勢の変動を持ち出すまでもない。
近年頻発した長期シリーズの漫画やアニメの完結、音楽でいえばバンドの解散、活動休止、体制変更などに対しても、同じくらいの危機を感じる人を多く見てきた。
特に自分の思い通りでない結末だったときのダメージは大きかっただろう。気持ちは痛いほど分かる。

だが一方で、そのコンテンツ、「物語」を、そのまま自分自身のアイデンティティに結びつけるのは非常に危険なのではないかという違和感があった。
そんな中、Dizzy Tricksterは、自分の好きな「物語」を見つけ安住する「だけではなく」、それをもとにした自分自身の道を行かなくちゃ、という意志を体現したように聞こえた。
だからこそ、2018年と異なる切実さを伴い、今の私の心を貫いたのだと思う。

 

 

ちなみに「トリックスター」は、神話・伝承で「いたずら者」として描かれる登場人物のことだという。その性質は次のように説明されている。

 

この世に混乱と破壊を引き起こすと同時に、しばしば混乱のなかから未知の文化要素を生み出し、破壊のあとにふたたび新しい秩序をもたらすという文化英雄的役割も果たしている。


トリックスターは、神と人間、天と地、秩序と混沌(こんとん)、自然と文化の間を行き来し、その境界で活躍する両義的存在となっている。

 

出典:https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC-170969
日本大百科全書(ニッポニカ)「トリックスター」の解説 より

 

Dizzy Tricksterの歌詞には神話ほどのスケールはない。
しかし「自然と文化」の行き来、という点では、"みんなが大好きな物語"から歌詞中の"Dizzy Trickster"の「物語」へと動く様が合致しているように見える。
物語の登場人物の中でも積極的に立ち回る存在であり、その行動の結果、混乱・破壊に加え、新しい秩序が生まれる。物騒だが、要はトリックスターの行動が物語に決定的な変化を生むということだ。
それはトリックスターの「生き様」である。

Dizzy Tricksterにおいても同様である。私たちに「~しよう」と促すのではなく、「僕」の選択と行動を通し、聴いた者を焚きつける歌詞だ。
歌詞中の「僕」は、"みんなが大好きな物語"のような、自分が馴染めない「物語」に代わるもの、歌詞中で言う"Dizzy Trickster"を見つけた。
そこにとどまらず、"Dizzy Trickster"が提示する"希望"を手がかりに、自分で走らなくちゃ=「自分の物語」を創ろう、という在り様、生き様。それが一連の歌詞である。
Cメロ後、最後のサビにおいても、問題を解決してなお走ろうとしている。

 

まだ火照ってる 僕は追いかけずにいられない だけどきっと 
一人ぼっちで走らなくちゃ ぐちゃぐちゃのまんまの希望でも
この高揚感は誰にも奪えない

 

トリックスターは語らない。
彼の行動が物語になるのだ。

 

ActⅢ~舞台転換:「Dizzy Trickster」から、自分の物語をどう創ればよいか

人間が物語でできているならば、人間が創る音楽にもまた物語があり、アルバムという形式の音楽媒体は、物語の集合体と言える。

 

全体で1つの長編小説のような物語を形成するコンセプトアルバムというものがあるが、多くのアルバムはそうではなく、バラバラのシングル曲/アルバム用新曲を編纂した、短編集に近いものだ。
MODE MOOD MODEというアルバムは後者にあたるだろう。

そう考えると、音源ではDizzy Tricksterの直後、3曲目の「オーケストラを観に行こう」という配置が示唆的である。
「物語」という言葉を起点に、マクロにユニゾン、あるいは人間の在り方を提示したDizzy Tricksterと、ある“30度を超えた日曜”を舞台にオーケストラへ誘おうと逡巡する二人、というミクロな物語を描くオーケストラを観に行こうの対比が興味深い。
私自身、この2曲の配置が生む曲調・歌詞のギャップには特に驚かされた。田淵智也による、アルバムの流れをスムーズにしつつ驚きを与える工夫だったのだと思う。

こうした曲順に対する驚きが、アルバム12曲全てに存在する。これは1曲1曲の持つ物語性に自覚的だからこそ実現できたのではないだろうか。
アルバム発売前には熾烈な曲順の予想があった。シングル4曲+リード曲1曲の曲調や歌詞、タイアップ先、さらに過去のアルバムの傾向など各種情報が手がかりとなり、「この曲はアルバムの頭にありそう」「この2曲は離れる」などの予想はできた。それらをもってしても曲順、特にシングル4曲の位置を全て当てられた者は皆無だった。
流石に難易度の高すぎるクイズとは思うが、「各々が予想した曲順」という物語を、実際の曲順・構成=アルバム「MODE MOOD MODE」という物語が上回った、と言えるだろう。
一見バラバラな12曲に対し、曲順・構成という要素でどうにか1つにつなぎ合わせ、「これが『MODE MOOD MODE』という物語だ」と提示してみせる。自信満々なユニゾン3人(特に田淵智也)の姿が目に浮かぶようだ。


そして、このように既存の曲を新たな曲とまとめ直す営み。タイアップ曲という、別の物語のため生まれた曲を1つの塊に組み込む営み。それを音楽として誰かへ届ける営み。
それらは、自分の物語を創り、他者の物語を組み込み、誰かに伝えること。

つまり人が生きるということと全く変わらないのだ。

 


こうしてUNISON SQUARE GARDENは、彼らの物語を創っている。
では私たちは、どうやって自分の物語を創ればいいだろうか?

大仰な問題提起で正直恥ずかしいのだが、Dizzy Tricksterを聴くとそんな風に問われているように思え、どうしても気が急いてしまう。
"走らなくちゃ"と、逸る気持ちを表すDizzy Tricksterは、気づかず自分が内面化した"みんなが大好きな物語"を振り切り、全く異なる自らの物語を創ろうとする人の在り方を描いているように思えてならない。


その答えの一端は、彼らのライブにあると思う。
ライブ会場はいわばUNISON SQUARE GARDENという大きな物語の影響下である。
同時に、ライブに来た一人一人にはそれぞれの物語があり、期待がある。例えば、これまでの傾向から導かれる「あの曲はやりそう・やってほしい」といった、セットリストへの期待である。

 

そんな期待はあっさり崩れ去ることを、UNISON SQUARE GARDENのライブを体験した方なら知っているはずだ。

 

既存の曲をまとめ直し1つの物語に再形成する、というのはライブも全く同じ。アルバムとの違いは、どの曲が披露されるかほぼ予想できないという点だ。
アルバム通り、Dizzy Tricksterの後がオーケストラを観に行こう、なんてことはないだろう。ライブ前にはセットリスト予想が飛び交うものだが、当たっているのを見たためしはない。さらにライブにはその場限りのドラムソロやセッションといった要素もある。
ライブはそんな予測不可能性の結晶と言える。観客にとっては"上手に準備されたユートピア"には程遠い。
予測できないものに対し、私たち個人の物語は無力に思える。

しかし私たちは、UNISON SQUARE GARDENのライブにおいて、自らの期待が、物語が崩れることをむしろ歓迎しているはずだ。
それは予想を上回る、常識を超えたステージを観られるということであり、私たちは心から楽しんでいるのだから。

既存の物語が崩れることは恐ろしく思えるが、必ずしもそうとは限らない。思いがけずより大きな喜びに至る過程でもある。
というより、一度崩れなければ、新たに創り直すなんて発想には至らないはずだ。

 

"ああみんなが大好きな物語の中じゃ呼吸がしづらいんだね"

 

"呼吸がしづらい"という「違和感」レベルの状態(ただし場合によっては命にかかわる)の自分に衝撃を与え、"みんなが大好きな物語"との不整合を決定的に自覚させ、強く行動へ向かわせる。
「自分の物語」を創るには、"走らなくちゃ"と強い衝動を喚起する、そんな予測できないもの、常識を超えたものが必要なのだと思う。

私たちの場合は、それをDizzy Tricksterと呼べるのではないだろうか。

 

様々な概念が当てはまるはずだが、私たちにとってのUNISON SQUARE GARDENのライブは、まさに好例だろう。
観た者の内部を定期的に揺るがしてくれる。「自分の物語」の状態を確認する機会となるはずだ。
ただし彼らの場合、曲間はほとんどなく、時にはMCさえなく、次から次へと絶え間なく展開する。Dizzy Tricksterのような疾走感溢れる曲は尚更である。
舞台転換なんてあるか分からない。故に一瞬も見逃せない。
"走らなくちゃ"という切羽詰まった表現からは、こうした時間的要因による焦りも垣間見える。

 


だから、今、この一瞬である。

「一瞬」は脳が作り出すフィクションに過ぎないという向きもあるが、今を生きている者にとって、それこそ些末な問題に過ぎない。

 


既存の「物語」を揺るがし、強く行動を呼び起こす存在を見つけること。
それがどんなにぐちゃぐちゃで、言語化不能であっても追いかけ、対峙すること。
私たちが直面する存在、私たちにとってのDizzy Tricksterの「物語」を組み込むこと。

そしてそれを反映した「自分の物語」を新たに創ること。
自分自身の人生を生き、次は自分が「生き様」を通して誰かへ伝えること。

 


それこそがDizzy Tricksterから受け取れる「物語」であり、あらゆる「物語」への向き合い方に対する1つの解であると、私は確信している。

 

「次の曲は何だ?」

 

例えばそんな高揚感が、何よりも確固たる証拠になる。

 


そして次の曲はこちら。(2023/1/17追記)

y-u-0829-2019-01.hatenablog.com

 

 

 


企画「MODE MOOD MODE SENTENCE」全曲セットリスト(全記事一覧)はこちら。(2023/1/24追記)

summerday.hatenablog.com

 

 

 

 

 

アルバム「MODE MOOD MODE」発売5周年、

おめでとうございます!

 

 

 

🦒                                      🦒                                      🦒